そして今。私は三年三組の教室にいる。さっきまでいた空き教室は、どうやら三年の教室がある廊下の奥にあったらしい。雨宮に後押しをされて、ここに来た。雨宮がどういう気持ちで私を見送ったのかわからない。けど、その想いを無駄にはしたくないと思えた。私自身も、どうにかこうにかなってしまいたいというか、今しか伝えるタイミングはないんじゃないかとか、あとは、意味がわからないけど、相談して楽になりたかった。
 そう、今から私がするのは告白じゃなくて相談。甘えてしまってるのはわかってる。千歳先輩が受け止めてくれるかはわからない。でも。
 はっきりしよう、色々と。

 ガラリとドアの開く音がして、そっちを見ると千歳先輩がいた。目が合うと、千歳先輩はすぐに目を逸らして、ドアを閉める。ゆっくりとしたその動きは、不思議と私の心を落ち着かせる。でも、こちらに近づいてくるにつれ、ドキドキと心臓が動き出した。先輩が私のすぐ傍まで来て、そっと、隣の席に座る。目は、相変わらず合わないまま。
「千歳先輩」
 呼んでも、いつもみたいに返事は返ってこないまま。まるで他人みたいな距離感に、私はなんだか恥ずかしい事をしてしまったんじゃないかと不安になって、一度俯いて息を吸った。そして、ずっとずっと心の中でモヤがかっていた想いを、吐いていく。
「私、千歳先輩には笑っていてほしいんです。笑顔でいて欲しい。……あの日、ここで会った時にはこんなこと思うなんて思わなかった。あの日はなんていうか、知らない世界を知っている千歳先輩についていきたいって思ったっていうか、魅力されたっていうか。まぁ、言葉にするなら好奇心とか、同情ってもんだったんだと思います。でも、雨宮と話して、その雨宮が今まで私が知ってる雨宮とは違うくて、なんで?って、不思議でしょうがなくて。多分、千歳先輩に触れたからだ、その熱に触れたからだ、って、なんとなく理解したつもりでした」
 話していくうちに段々と顔は前を向く。そのまま体ごと千歳先輩の方を向いたけど、俯いた千歳先輩は髪の毛が垂れていて表情がわからない。それでも、私は言葉を続けた。
「私にとって知らない世界を見てる二人が羨ましかった。遠い存在だった。でも、……だけど、実際はそんなことなかった。遠くにいたのは、二人じゃない。私の方。……さっき、雨宮に告白されて、気付きました。いつだって私は、二人の恋をどこか他人事で聞いてて、実感があんまりなかった。どっちも幸せになればいいな、なんて呑気に思ってた。……最低です」
「最低じゃないわ」
 ようやく聞こえた千歳先輩の声は、とても震えていた。膝の上で手が、強く強く握られていた。相変わらず顔は見えないまま、震えた先輩がゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「一番、最低なのは私よ。何もかも、そうなの。ずるをしたから、悪いことしたから、全部上手くいかないのは当然なの。沙羅さんは何も知らなかっただけ。知らないのは、何も悪くないの。全て知ってる上で、知らないフリをした、私が悪いの」
 その言葉ひとつひとつが、重く淡く私の心に響く。一言一句逃したくなくて、私は必死に目の前の小さな女神を見つめた。
「……知ってたの、雨宮さんの好きな人があなただって。最初に出会った時から。見てればわかるわ、雨宮さんから聞かなくたって。……実際キスした時に直接言われて、……ダメージは少なかった。なのに、その後あなたにあって……あなたを見て……。なんて運命は残酷なんだろうって……。世の中なんで、ハッピーエンドを望んじゃいけないのって……恨んだ……。雨宮さんの好きなあなたに、私は、なれない。雨宮さんの呼ぶあなたの名前を、私は呼びたくない。存在を、肯定したくない。だから私はあなたをずっと、下の名前で呼んでたわ……。そうして私はあなたに、私を重ねようとした。同情させて、私のかわいそうな部分の身代わりに、私が見る私に、なってもらおうって」
 ようやく千歳先輩が顔を上げて、私の方を向く。それは初めて会った時に見た、赤くて、泣きそうで、怒ってそうな顔だった。とろりと蜂蜜みたいに、千歳先輩の声が溶け込む。世界が、私を飲み込みはじめる。
「沙羅さん」
 数えきれない程呼ばれてきたはずの自分の名前が、まるで他人のものみたいだ。息をひとつ吸って吐くだけで、肺が潰れてしまいそうで、苦しい。
「沙羅さん」
「……は、い」
 ゆっくりと息を吸った千歳先輩が手を伸ばす。その手は私の片頬を包むと、親指の腹で優しく撫でた。そこでようやく、私は自分が泣いているんだと気づいた。
「……雨宮さんに告白されて、どう思った?嬉しかった?」
 涙が溢れて止まらなかった。千歳先輩は多分、私が雨宮の告白を承諾したと思ってるんじゃないか。きっとこの人は最後の最後まで、最低でいようとする優しい人なんだ。可哀想で、仕方ない人だ。そしてそれはきっと、私もだ。本当に救いようがない。
「……私、は」
 涙がするりと落ちては、千歳先輩の指を伝っていく。このたくさんの涙から想いが全部全部全部伝わればいいのに。今すぐ脳内で考えてること全部が声に出せればいいのに。

「私は、千歳先輩が好きです……」

 未熟な私たちは、今ここで、ハッピーエンドを手放した。