「今、私が先輩の事好きって言って、キスしたら、どう思います?」

 千歳先輩と二人きりの美術室で、紙を二つ折りにしながら問いかけてみる。先輩はというと、黄色の絵の具が乗ったパレットを筆で撫でていた。私の問いに対して驚くことも無く、視線だけ一度こちらにやり、またパレットに目をやる。
「なぁに、急に。私の事好きになっちゃったの?」
「そういうわけではないです」
「ふふっ、そうでしょうね。変な沙羅さん」
 くすくすと笑いながら先輩は真っ白な紙にさらさらと何かを描いていく。夏の日差しがこれでもかと美術室には入り込んできていて、窓のカーテンは気持ち休めくらいにしかなっていなかった。今日は風が少しだけ強いから、尚更。
「……窓、閉めますか」
「ううん、大丈夫。これくらいの風、あった方が涼しいでしょう」
「いや、窓閉めて冷房を有効活用した方が良いかと……」
「いいの。外の音が聞こえた方が、上手く描ける気がするから」
 学祭準備。
 私が雨宮に誘われたのは、そんな内容だった。夏休み明けの学祭に向けて、生徒会と実行委員会は先に準備を始めるらしい。学祭はやる事だらけで、猫の手も借りたい状態なんだとか。
 といっても部外者である私に出来ることは限られている。とりあえずということで、印刷したチラシを二つ折りにする役割を任された。チラシやポスターを担当する、美術担当千歳先輩の元で。
 ……千歳先輩は不思議な人だ。他の先輩とは少し違う雰囲気を纏っている。多分、同い年だったとしても同じ事を私は思うだろう。なのに周りはそれに気づかない。こんなにも触れたら魅了されてしまう程の何かを持っている人なのに、誰も見向きもしない。当たり前のように、酸素のように、先輩と話す。こんなにも夏の日差しが綺麗に溶け込む人なのに、蕩けてしまいそうな程の熱を持っている人なのに、誰も振り向きもしない。この人の熱を知っているのは、雨宮と、私だけ。
 内緒の秘密基地を見つけた気分だった。そこにはたくさんの綺麗で良い匂いの花が咲いていて、日光浴も出来て、楽園のような場所なのに、他の誰も知らない。背徳感。優越感。「知らないの?もったいない!」と言いふらしたい気持ちと永遠に内緒にしていたいもどかしさ。
「……先輩、チラシ全部終わりました」
 誰も知らない、私ですら時折感覚がおかしくなる、この熱情はなんなんだろう。
「じゃあ、それ一旦生徒会室に運びましょうか」
 カタリ、と筆を置いた先輩に頷いて、携帯をポケットから出す。
「雨宮呼びますか?量多いし」
 途端、夏の暑さをようやく感じたかのように頬を赤く染める先輩を見て、何とも言えない気持ちが心を満たした。
「い、いい。これくらい私と沙羅さんで運べるでしょう」
「でも使える機会は使っといた方が」
「……あなた、思ったより意地悪する人なのね。味方はもっと優しくするべきよ」
「優しくしようとしての提案なんですが……」
「はぁ……。とにかく、雨宮さんは呼ばなくて結構。さっさと運びましょ」
「はい」
 携帯で一文だけメッセージを送り、ポケットに戻す。二人だと少し多い気もするチラシをなんとか手分けして持つと、両手の塞がった私達では美術室のドアを開けれないことに気づいて笑った。お互い笑って、お互い机にチラシを一旦置いて、また笑う。なんて言うか、コメディだ。それから私が美術室のドアを開けると、二人で笑いながらもう一度チラシを持った。それから美術室を出たあと、今度はドアを閉めれないことに気付いて、まぁいいかってまた笑って、生徒会室に向かう。

 一言で表すなら、夢の中、だ。ずっと夢の中にいる気分。あんなに綺麗で儚い女神様、千歳先輩は、存外コロコロと表情が変わる。雨宮の話をすると特に。あぁ本当に好きなんだなぁと知れば知るほど、実ればいいと思えた。雨宮がわからない存在になっていく一方で先輩はわかりやすく、接するのが楽だ。もちろん雨宮も今まで通り変わらず話すし特に変わった所はない。雨宮と先輩も、前を知らないから何とも言えないけど、おそらく今まで通り話せているように思える。先輩は案外雨宮の前では上手く取り繕えていて、雨宮がいない時の方が態度がわかりやすいみたい。
 ひとつひとつ、わかっていく事が増える度に、楽しさは増えていく。
 多分私自身がそんなに誰かを好きという強い感情に触れてこなかった分、ワクワクしてしまうんだろう。人の恋愛は客観視できる分、気持ちが楽なのかも。これって先輩や雨宮にとっては酷いのかなぁとかも考えたりしたけど、協力する立場な分、恋バナにワクワクしてしまうのは許して欲しい。
「先輩」
「ん?」
「雨宮の、どこが好きなんですか」
「……急にどうしたの」
「ちょっと気になって」
 知りたい。先輩の恋心を。
「……うーん、明確にここが好きってのはないかもしれないけれど……。強いて言うなら、真っ直ぐな目をしてるから……かしら」
「真っ直ぐな目?」
「よくね、生徒会室の隣の三年三組……、誰もいない放課後とかに、そこの窓際でね、グラウンドを見てるの。いつもは今日も見てるなぁくらいで通り過ぎてたんだけど、一度、たまたま顔が見えた時があって。……びっくりするくらい真っ直ぐな目をしてた……。あぁ……、この子は無垢な気持ちをきっと持ってる特別な子だ、私はそれに触れてみたい、って、そう思えたの」
「……グラウンド」
「それからあの目を見る度に、眩しくてしょうがなくって。それに話してみればみるほどやっぱり無垢で素敵な子だから、もっと、もっと、仲良くなりたいなって」
「……」
「ふふっ、ちょっと話しすぎちゃった」
 ズキン、ズキンと、胸の端っこが痛みを知る。違う、これは知りたくない痛みだ。……言った方がいいんだろうか。雨宮がグラウンドを見る理由を。味方って結局何をするのが正解なんだろう。
 恋心を知りたいのに、またわからない事が増えてきた。ワクワクとズキズキが私の心を埋めていく。とにかく今は目の前の先輩の笑顔を壊したくなくて、私は下手くそな笑みを浮かべるしかなかった。
「……いいですね。うちのクラス、今回体育館で劇やる予定なんですけど、雨宮きっと主役ですよ。華あるし」
「そうなの?絶対観に行かなきゃ!」
「楽しみですね」
 近づきすぎても、遠のきすぎても、ダメな距離。間違えないようにしなきゃ。秘密を失いたくない。
 私と千歳先輩は、笑い合いながら生徒会室まで歩いた。ポケットの中では、携帯が一件のメッセージ通知を知らせていた。