保健室に着いた時、雨宮は窓の近くのベンチソファーに座っていた。後ろ姿だから表情はわからなかったけど、視線の先にはグラウンド。そこではちょうど、サッカー部が練習試合をしているようだ。
ゆっくりドアを閉めて、ゆっくり距離を縮める。それから私は今来たドアの方を向いて隣に座ると、雨宮はこちらを見ることなくポツリと呟いた。
「夏だよね」
「そうだね」
「暑いよね」
「そうだね」
冷房の効いた保健室は涼しいけど。
いつもならそう返したけど、なんとなく相槌だけで止める。ふと雨宮の方を向くと、横顔は思ったよりもいつも通りだった。と思ったのも束の間。雨宮は突然「あ〜!」と自分の頭をくしゃくしゃにして、その後ガクッと項垂れる。
「……葉月聞いた?千歳先輩から」
「あー、まぁ、一応」
「あ〜」
サイアク。と呟いた声は、テストで赤点だった時のテンションのそれで、事態の深刻さをよく表していた。雨宮は生粋の脳筋で、勉強はからきしダメなのだ。定期的に二人で勉強会を開いてみるものの、たった五分で雨宮はダウンする。そのせいで毎度赤点ギリギリかアウトの二択で、よく担任に怒られていた。でも脳筋の割に部活に入っていなくて、代わりに早くから生徒会に入り、ボランティアだの実行委員だの精力的に頑張っているらしい。一年も二年も同じクラスだけど、それ以上の事は詳しく知らない。
「いや〜、ほんと、意味わかんなくてさ……。マジ参る……」
「千歳先輩、反省してたよ」
多分だけど。
「反省したってアタシのファーストキスが戻ってくるわけじゃないっしょ……」
「ファーストキスだったんだ」
「あ」
思わず両手で口を隠した雨宮と、やっと目が合う。少し赤く見えた頬は、夏のせいにしとこう。ね。
大きく溜息を吐いた雨宮が、また自分の頭をくしゃくしゃにする。そのせいで髪の毛がボサボサだけど、それで本人の気が済むなら仕方ない。しばらくすると満足したのか、また溜息をひとつ吐いて、グラウンドの方を見た。
「……千歳先輩はさぁ、生徒会の中では仲良くしてもらってた方なんだけどさぁ。まさかそんな、好意抱かれてるとは思わないじゃん、ラブの方の」
「うん」
「普段はほんと大人しいし、なんか麗しい……っていうの?お嬢様みたいでさ、そんな大胆っていうか……そういうことするようなタイプじゃないと思うんだよ」
「実際したけどね」
「……あ〜、まぁ。うん。びっくりした」
「……どうだった?」
「はぁ?」
純粋な興味だった。あまりにも純粋すぎて、思考を通さないまま口から出た。だから言われた雨宮よりも、驚いた顔してたかもしれない。雨宮はというと、最初は私を見て怪訝な顔をしていたものの、ふぃっと視線を逸らして天井を見ていた。
「…………ひみつ」
「え、そこ秘密にするの?」
「うるさい!アタシが話したいのはそこじゃなくてさ!これからどうするかってこと!」
バタバタと足を動かす雨宮は、駄々をこねている子どもみたい。笑うところじゃないから我慢したけど、ちょっと面白い。そう、雨宮は大きい子どもって感じがする。だから一緒にいて面白いし、深く考えて話さなくていいから楽なんだろう。そんな大切な友人の悩み、きちんと乗らないと。
「どうしたいの?」
「えぇ?そりゃ……うーん……、今まで通り普通に接したい……?とか……」
「それは難しいだろうなぁ」
「じゃあ無理じゃん」
悩み相談終了。お疲れ様でした。とは出来ず、どうすればいいのかと私も頭を悩ませる。なんとなく雨宮の方を見ると、ボサボサの頭が目に入って、思わず手を伸ばした。そっと髪に触れると、ビックリした顔で雨宮が私の方を見る。髪ボサボサだよ、と言おうとしたのに、口から出たのは自分でも不思議な言葉だった。
「私、千歳先輩と似てるのかも」
「似てる?」
その言葉はすとんと私の心に落ちてくる。透明な水に一滴、深紅色の水が落ちて、溶けて、広がっていくようだった。
「え、似てるって、何、葉月もアタシの事」
あたふたと慌て出す雨宮は、可愛い。ただ、これは恋愛感情ではないから、そこは千歳先輩とは違うけど。女神様とは、思わないけれど。どちらかと言えば私にとっての女神様は、千歳先輩な気がするけど。だけど。
肩の上でくるりとカーブを描く雨宮の癖っ毛を、そっと離して。目を合わせたら、口をパクパクする雨宮と目が合う。
救われない、救えない、千歳先輩と雨宮。
「葉月もアタシの事、好きなの……?」
「うん」
「えっ」
「私の場合は、友達としてね。ライクの方」
「あぁ……」
安堵したのか何なのか、大きく息を吐いた雨宮がまたグラウンドの方を向く。太陽に照らされた瞳は、ガラス玉のように綺麗。
「普通にしてたらいいんじゃない、千歳先輩に対して」
「難しいってさっき言ったくせに」
「でも無視するって訳にはいかないでしょ。雨宮はなーんにも悪くないんだから。それに、千歳先輩には私からも言っとく」
「なんて?」
「雨宮困ってるから、普通に接してあげてって」
「うーん」
キスは嫌だったけど、そんな困ってる訳でもないんだよなぁ。
小声でそう言う雨宮に、少し驚く。そういえばどうして雨宮は、突然態度が変わった先輩に対して普通なんだろう。そこまで困ってないんだろう。さっきはあんなに顔を真っ赤にしてたくせに、なんで今は平然と出来てるんだろう。
純粋な興味は、夏の入道雲みたいにもくもくと大きくなっていく。
「まぁ何とかしてみるよ。葉月が味方なら、なんか大丈夫な気がするし」
「……うん」
いつも一緒にいたはずの雨宮が、私の興味によってどんどんと得体の知れないものになっていく。それは、自分が想像してるよりも強く、私の心を揺らしていた。
「あー、にしても保健室冷房効きすぎじゃない?」
そうだね、雨宮。私はちょっと、暑いけど。