世界から愛が消えたというのに、まだ愛がある人がいるらしい。
世界に条例が定められて100年は過ぎたであろうこの御時世にまだそんな人がいるのかと、僕はため息を吐きながら読みかけの新聞をテーブルに置いてカフェを後にした。
「遅いよ、約束してる時間はとっくに過ぎてる」
「そう?君の時間が僕より速いだけなんじゃない」
「またそうやって……」
カフェを出た直後、前方からヘルメットが投げられて、それを反射的に受け止めると、バイクのすぐ側にいつもの彼女がいた。
「まぁ、申し訳ないとは思ってるんだけどさ」
小さく呟いてからヘルメットを被り、彼女が乗ったバイクの後ろに僕も跨る。何も言わない辺り、今日の彼女はそこまで怒っているわけではないらしい。
何処に行くの、とか、何かあったの、とか、そういう事を聞くのは今はよそう。とりあえずはこのバイクが行くまま、揺られる事に徹する。
夕暮れが綺麗だね、とだけ、ヘルメットの中で口にした。
暫くして着いたのはいつもの海で、錆びたベンチに座る彼女をぼんやりと後ろから眺める。
「座んないの?」
今日はちょっと君の後ろ姿が見てたくなった。なんて不意に思いついて、それをゆっくりと胸の中で噛み落とす。そしたら今1番最適な言葉が思いつかなくなって、あぁ本当に不具合は嫌だなと顔を顰めた。その顔が拒否反応に見えてしまったらしく、彼女の顔も僕と同じ、顰めっ面になる。
「嫌なら別にいいけど」
「嫌な訳ないだろ」
「ふぅん。あっそ」
「はいはい」
隣に座れば、訪れるのは沈黙と夜。だからといって居心地の悪さがある訳でもなく、ただ、何も考えず息を吸って吐いていた。
「私、明日なんだ」
だからかな。何も考えてなかったから、彼女の言葉に反応するのが遅れてしまって、横を向くことさえも、上手いタイミングで出来なかった。
今なんて言ったの。海の音で聞こえなかったよ。
「へぇ、明日か。はやいね」
「うん。びっくりした」
「……気をつけてね」
「……うん。ありがと」
「……」
「ちょっと、反応それだけ?」
「いや、だってさ……」
だって、どう反応するのが正解なのか僕にはわからないんだよ。プログラムされていない事は、わからない。わかるはずもないじゃないか。
僕は彼女をずっと見ていられなくなって、前を向く。夜の海は落ち着くって君が言ったのは一か月前で、夜の海は怖いと君が言ったのは一昨日だった。僕にとって海は、落ち着くんだろうか。怖いんだろうか。少し考えてみて、君しか出てこなくて、考えるのを止める。
海の音は今日はとても静かだ。悲しいほど、静かだ。
「ねぇ、愛ってあると思う?」
彼女の言葉が響く。
「さぁ」
僕の言葉が震える。
「今日新聞で見たの。まだ愛のある人がいるんだって」
「あぁ……。それか。僕もさっき読んだよ」
「本当なのかな」
「どうだろね」
「……」
「君は、愛ってあると思う?」
質問に深い感情がなかったと言えば嘘になる。ずるい返しをしたのも理解している。それでも、知りたいと思った。
君が、どう思うのか。
「ないと思うよ」
「……」
「あったら、条例の意味が無いもん」
「……」
「それにね」
「……」
「もし本当に愛があるなら、私は知りたかった」
世界から愛が消えたというのに、まだ愛がある人がいるらしい。
その新聞記事にはこう書かれていた。
『二日前、某所で結婚を拒んだ人がいた。条例三十六に違反する行為とし、罰される予定だったが、その人は忽然と姿を消し、今も捜索中とのこと。』
……走馬灯のようにスラスラと文字が頭の中で踊る。ちゃんちゃら可笑しい話だ。この御時世にそんな人がいるなんて、笑ってしまう。
少し笑いながら彼女の方を見遣ると、彼女はじっと夜の海を見ていて。今、その海は怖いのかな。それとも、悲しい?なんて、少し余裕を感じながら思った。
「愛を知っても、きっと良い事なんてないよ」
僕の声に君が振り向く。
「愛なんて、知っても良い事なんてないよ」
「なんでわかるの」
「……おととい」
「おととい?」
「2日前、僕、君とこの海に来る前に1人で来てたんだ」
「ここに?」
「そう、ここに」
ゆっくりと僕と彼女の視線が絡み合って、解けなくなる。息をするのも忘れてしまいそうになるくらい、急に鼻がツンとして、目頭が熱くなった。大きく息を吸ったら、次に吐く息は苦しいくらいに震えてしまって、思わず笑う。そんな僕を見て、彼女は目を丸くした。
「バカだよね、僕、君に会いたくなったんだけど、いつもの約束の時間まで待てなくて、海に来たんだ。海に来てもまだ君に会えるわけじゃないのに、なのに、ちょっとだけ落ち着いた」
僕から先に視線を逸らす。海は、変わらず静かだ。
「そのあと、いつもみたいにカフェで君を待って、わざと少し遅れて出て、君に少し怒られるのが好きだった。いつものベンチに一緒に座って、くだらないやり取りをするのが好きだった。そう、僕は、いつも好きだった」
ベンチから立ち上がり、海の方に近づく。君が立ち上がる気配はしないけど、いいよ、座ったままで。
涙は波にあげるから。君は見ないままで、いいよ。
「ねぇ、明日は何時から?」
波打ち際にしゃがみこんで聞くと、小さく返事が返ってくる。
「……19時から」
「ふぅん」
砂を踏む音がする。
「19時からなら、行けるかな」
「来る気ないくせに」
足音が近づく気配がする。
「そんなことないよ、祝う祝う」
「結構です」
隣に、彼女がしゃがみこむ。
「ねぇ、これが愛じゃないなら何なんだろうね?」
ぽすん、と砂にお尻をつけて座りながら、言った。
君の顔を見ながら、言った。
君は、やっぱり目を丸くしていた。
「僕のこれが愛なら、これを君に伝えれば、君は、愛を知ることになるのかな」
君も、ぽすん、と砂にお尻をつけて座る。
嫌だな、君にだけは涙を見られたくはなかったのに。今更もう格好つけられないじゃないか。
感情に名前を付けた途端、胸が高まって止められないなんて、この御時世にそんな人、いるわけないじゃないか。
ぐちゃぐちゃになった僕の顔を、想いを、君はどんな風に見ているんだ。
「……ごめん、いつも、約束の時間に遅れて」
「……」
「……ごめん、いつも、素っ気なくて」
「……」
「……ごめん、愛を、知ってしまって」
「……」
波が一度大きく揺れて、僕たちの足を少しだけ濡らす。でもどちらも足を引くことはなかった。なぜなら僕たちは、お互いに視線を逸らすことが出来なかったからだ。
僕たちはもう、戻れない。
「明日、19時、晴れるといいね」
「……そうだね」
「僕、やっぱり、19時からなら行けないや」
「……うん」
「祝えないよ」
「……、うん」
「ねぇ」
「……ん?」
「今の海は、怖い?」
僕の問いに、君から先に視線を逸らす。僕もそれに倣って前を向いた。
「……今の海は、寂しいよ」
その言葉に僕は、僕は……。胸がいっぱいで、何も言えなかった。あぁ、本当に不具合は嫌だな。
どれくらい経ったんだろう。ずっと沈黙が僕たちを包んで離さない。けど、ずっとここにも居られない。いつもたくさん話してたはずなのに、何を話せばいいのか、どうやって話していたのか、忘れてしまった。
だからもう、時効だ。
僕から立ち上がって、お尻についた砂を両手で払う。それを見た彼女も立ち上がって、同じ事をする。そのまま錆びたベンチの先のバイクへと歩いて、彼女からヘルメットを受け取った。それを被って、……被ろうとして、その手に制止が入る。
彼女の手は、震えていた。
「それは、愛だったと、思うよ」
確かに僕には、そう聞こえた。
そのあとバイクは来た道を逆に走って、いつものカフェの前で僕は降りて、いつもみたいにまたねとヘルメットを彼女に返そうとする。いつもならすぐに彼女も別れを告げて帰るはずなのに、少しだけ受け取るのを躊躇っていた。それがわかっていて、僕はヘルメットを押し付ける。
「ヘルメットくらい、受け取ってよ」
「……明日、19時」
「ん、」
「19時、絶対来て」
「……わかった。約束」
「……遅れないでよ」
「もちろん。もう遅れないよ」
僕が笑いかけると、ようやく君がヘルメットを受け取る。そして丁寧に仕舞うと、きゅっとハンドルを握った。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、僕から遠ざかっていった。
それを、僕は曲がり角で見えなくなるまで、ずっと見ていた。
モラトリアムに愛を。