真夜中の海に行こうよ。

 そう言って笑った君の顔が優しかったから、思わず私は頷いた。

 君が運転する車はいつも、助手席に座っているとつい眠たくなってしまう。そんな私を見て「寝てていーよ」と君は声をかけてくれるけど、今日だけはなんとなく嫌だった。
「仕事終わりで疲れてるのに、ごめんね」
「あぁ、いや……。こっちこそ寝そうでごめん」
「寝てていいのに」
「やだ」
 くすくす笑う声が聞こえてくる。
「もうすぐで着くよ」
 耳を撫でる声は、少しだけいつもより小さい。

 やがて車が止まり、君が降りたのを見て私も降りようとした。けど、窓の外に広がる暗闇に思わず手が止まった。
 夜の海って、こんな暗いもんなのか。
 コンコン、と窓がノックされてハッとする。君がドアを開けてくれたから、おずおずと一歩、私は車から足を踏み出した。
 空が広い。割に暗い。潮の匂いがする。波音も大きく聞こえる。確かにここは海だ。真夜中の、海だ。
「久しぶりにここに来たな」
 思ったよりも遠い所で声がして、私は慌てて携帯の光をつけて君に近寄った。君は私を見ると、そっとその携帯を手に取り電源をオフにする。
「あ……」
「時間なんか、気にしなくていいよ」
 別に時間を気にして携帯をつけた訳ではない。でも、私は返された携帯を無言でポケットに突っ込んだ。やっと目が慣れて見えた君が、なんだかいつもと雰囲気が違ったから。
「気にしなくていいの。何もかもさ」
「そうだね」
「もう少し、海の方に行こ」
「あの、」
「ん?」
 何かを言おうとしたら繋がれた左手に、何も言えなくなる。
 そんな私を見て、君はひとつ笑ってから歩き出した。どんどんと波音が近づいて、砂の感覚がよりリアルになって、握った手に力を込めた。

「海ってさ、太陽が昇ってる時はあんなに綺麗なのにさ、夜になると真っ黒なんだよね、真っ黒。怖い?」
 波打ち際でようやく足を止めた君が、私に問いかける。
「怖いかはわかんないけど、びっくりはした」
「びっくり?」
「こんな暗いと思わなかったもん。海かどうか、音がないとわかんないね」
「あはは、確かに。そうだね……」
 言葉をかわすのをやめた途端、波音以外何も聞こえないこの空間が、いやに心地よく感じられた。繋いだ手から伝わるじんわりとした熱さが逆にむず痒い。軽く手を揺らすと、君がこっちを向いて口を開く。
「……あのさ。なんで来てくれたの」
「なんでって?」
「こんな、急にさ。真夜中の海なんて普通やばいでしょ」
「そうかなぁ」
「うん。……ありがとう」
「別にいいんじゃない。私も来たかったし」
「嘘つけ」
「あはは、まぁね」

 まだ、夜は深くなる。

「……もう、ダメでさ」

 小さく聞こえる君の声が、波にさらわれていく。

「今日、バイト、行けなかった。ダメなんだ、もう。私、結構やばいみたいでさ、なんていうか、もう、無理みたいで。ダメ元であんたに連絡して、連絡つかなかったら終わりにしよって思ったんだけど、連絡、ついたからさ」
「つかない方がよかった?」
「……生きるの、無理」
「無理?」
「どっか遠くに行きたい。もう無理」
 ゆるりとほどけそうになった手を、もう一度私から繋いだ。たじろぐ君との距離を縮めて、もう片方の手で優しく抱き締める。
 いつものシャンプーの匂いがした。
「もう無理なんだ?」
「うん」
「……じゃあ、やめよっか、全部」
「え?」
「私も仕事やめよっかな。あと今住んでるとこもちょうど解約したかったし。隣うるさいんだよ、マジで。ちょうどいいや」
「え、待って待って」
「微妙に頑張ってたジムももういいかな。ジムに囚われてる気がするの腹立つし。私の人生、ジムの為に生きてる訳じゃないっての」
「や、あの、ねぇ」
「そうだよ。私の人生、誰かの為に生きてる訳じゃないんだよ。君も、そうでしょ?」

 真夜中の海に行こうよ。今度は別のとこ。別のとこだとさ、暗さとか違うのかな。一緒なのかも。 全然想像つかないのにワクワクしちゃうね。一緒に行こう。二人ならどこでも楽しいよ。君の運転で、私は時折寝ちゃうかもしれないけど、それでも。

「真夜中の海に行こうよ」