「先駆の旗頭」として、人生の師匠と共に「勇敢に挑戦」した人生を送ることができました。
2020年7月22日水曜日、‪午後1時6分‬、父・ #鶴尚 が77歳で霊山へと旅立ちました。
 


1966年9月21日、父が苦境のどん底にあった23歳の時に、人生の師匠からいただいた指針に「先駆の旗頭」「勇敢に挑戦」とあり、父の口癖は「勇敢」であり、行動も「先駆」であったと思います。
 
#公明新聞 記者を経て、多くの方の筆舌に尽くせぬご支援を賜り、昭和54年4月22日に、36歳で第3位での初当選以来、6期24年、 #公明党 の品川区議会議員を務めさせていただきました。
 

引退後は、病気による両足の切断や脳幹部梗塞、食道がんなど不死鳥とも言われるほどに、一つひとつ病魔を乗り越えてきました。
 
亡くなる前日、救急車で搬送された日の朝も、「デイサービスに行く。友人の輪が拡がるから」と言っており、意識が遠のく中で「実践の哲学書」の一節を口にするなど、「宝塔」の章で人生の師匠が教えてくださった忍辱行の説話の通り、大衆福祉の公明党の地方議員として、人生の師匠の仰る通りに生き抜いた人生であったと思います。
 
また、現職の父を陰に陽に支え、引退後の約17年間、介護で支えた母も、やり切ったと申しております。
 
最後は、父が希望していた「 #臨海斎場 」で、コロナ禍でもあることから、公明党品川総支部から #伊藤こういち 都議会議員(総支部長)に代表してご参列いただき、家族のみで見送り、昨日、初七日法要も自宅にて行いました。
 

「臨海斎場」については、1990年3月19日、奇しくも父の47歳の誕生日に行った、予算特別委員会総括質疑にて提案したものが実ったものです。
 
会議録を確認すると、「人生の最終章のお別れに当たりましてのもろもろの施設については、本来的には自治体がやはり、いわゆる行政側が責務を負うべきではなかったのか」との視点から、「この城南地域に都立の火葬場を誘致するように、東京都に、あるいは関係機関に働きかけるよう提言する」「都立が無理だということであれば、(中略)一部事務組合方式とか、そういうものでも設立できる可能性があるのではないか」と前向きに検討するよう提案し、引退した翌年の2004年に開設したのが「臨海斎場」でした。
 
父の会議録を紐解くと、「平和」、「人権」、「障がい者支援」、そして、「ウソやデマ」に対しては勇敢な言論戦にて徹底して追及し粉砕するなど、党創立者が示してくださった立党精神のままに「大衆福祉の公明党」の地方議員としての使命を、皆様のお支えによって全うさせていただいた人生でありました。
 

私も今、父と同じ使命をいただき、その立場になって初めて父や先輩議員の皆様、必死にご支援くださった支援者の皆様の真心、何よりも、党創立者のご期待を改めて身で学んでいる一日いちにちであります。
 
これからも、父に賜りましたご厚恩に対して、恩返しの働きをすることを改めて決意させていただきました。
 
今後とも、皆様からのご指導・ご鞭撻を賜れれば幸いです。
 
父の逝去に際し、御礼を含め、ご報告させていただきました。
 
最後に、
父さん、忙しい中、キャッチボールしてくれてありがう。
また、キャッチボールしてね。
今まで、本当にありがとう。

#品川区
#つる伸一郎