第83回 代表曲と売れた曲は一致するのか

 

沢田研二

 

私の子どもの頃の大スターといえばジュリーが真っ先に浮かぶほど、ギラギラに輝いていた沢田研二。出す曲出す曲が驚きの連続で、子供から大人までを楽しませてくれるエンターテイナーだったジュリーの、代表曲を探ってみます。

 

【作詞安井かずみor山上路夫、作曲加瀬邦彦を中心とした時期1 起動】  1971~1973年

「許されない愛」「あなただけでいい」「死んでもいい」「あなたへの愛」「危険なふたり」他

ザ・タイガースとしての活動を終え、ソロ歌手として起動を始めた時期、早くも2曲目でトップ10入りを果たすという順調なスタートとなりました。作詞は6曲中3曲が安井かずみ、2曲が山上路夫、作曲は4曲が加瀬邦彦でしたが、5thシングルまでは命がけの愛を歌うような重いテーマの作品が並んでいました。しかし6thシングル「危険なふたり」ではもう少しライトな感覚の恋愛が歌われ、これが大ヒット、オリコン1位を初めて獲得となったわけです。

 

【作詞安井かずみor山上路夫、作曲加瀬邦彦を中心とした時期2 上昇】  1974~1975年

「胸いっぱいの悲しみ」「魅せられた夜」「恋は邪魔もの」「追憶」「愛の逃亡者」

ソロ歌手としてもトップに到達すると、ここからはさらに上昇を目指してく段階になります。この期間も作詞(日本語詞)は7曲中4曲が安井かずみ、2曲が山上路夫、作曲は4曲が加瀬邦彦、残り3曲は外国人の作曲となり、この時期はやや海外(フランス)かぶれ的なところもありつつも、基本路線は変わらずといった感じです。作品では「追憶」が2回目の1位を獲得し、セールス面でも安定した売上枚数を確保し、まずは順調に進んでいるといういっていい状態だったでしょう。

 

【作詞阿久悠、作曲大野克夫を中心とした時期1 転換】  1975~1976年

「時の過ぎゆくままに」「立ちどまるふりむくな」「ウィンクでさよなら」

「コバルトの季節の中で」「さよならをいう気もない」

この時期から起用する作家に変化が見られ、5曲中3曲が作詞阿久悠、作曲大野克夫という組み合わせになります。最初にこの組み合わせでの作品となった「時のすぎゆくままに」が大ヒットとなり、これからのジュリーはこの二人でというようになったのでしょうか。そういう意味では転換期にあったともいえるでしょう。楽曲的にもフランス風からまた戻ってきて、どこかけだるさのような、大人の余裕のような、そんなものを感じさせるミディアムテンポの作品が何曲か続いた印象です。

 

 

【作詞阿久悠、作曲大野克夫を中心とした時期2 全盛】  1977~1978年

「勝手にしやがれ」「憎みきれないろくでなし」「サムライ」「ダーリング」他

阿久悠と大野克夫のコンビでさらにジュリーらしさが確立されたのがこの時期で、実績面でも全盛期を迎えます。「勝手にしやがれ」はレコード大賞を受賞し、歌唱中にハットを投げるパフォーマンスが話題になりました。小学生の私も、学校で被る帽子を投げて真似したものです。そこから企画レコード「メモリーズ」を除くシングルはすべてこの二人の作詞作曲で、まさにジュリーのギラギラ感にあふれた世界が作品ごとに繰り広げられました。

 

【作詞阿久悠、作曲大野克夫を中心とした時期3 充実】  1978~1979年

「ヤマトより愛をこめて」「LOVE(抱きしめたい)」「カサブランカ・ダンディ」

「OH!ギャル」「ロンリー・ウルフ」

このあたりは安定期に入ったという印象で、5曲全曲を大野克夫が作曲し、作詞は4曲で阿久悠が担当。唯一阿久悠が書いていない「ロンリー・ウルフ」がなぜか売上が極端に悪かったのですが、その期間は「ヤマトより愛をこめて」「LOVE(抱きしめたい)」といったバラード、上から目線の気障感満載の「カサブランカ・ダンディ」、軽薄感満載の「OH!ギャル」など、タイプの異なる作品に挑戦して、それぞれヒットさせることに成功しました。

 

【作詞に糸井重里、作曲加瀬邦彦 実験】  1980年

「TOKIO」「恋のバッド・チューニング」

この2曲は作詞糸井重里、作曲加瀬邦彦という組み合わせで、作詞にはコピーライターとして時代の寵児だった糸井、一方で作曲は加瀬への回帰といったところで、専業の作詞家にはない言葉の使い方でインパクトを与えたかったのかなとも思います。それがうまくいったのは「TOKIO」で、電飾の衣装にパラシュートを背負って歌うパフォーマンスが大いに話題になりました。その点で実験的な意図もあったのではないかというところがうかがえます。

 

【作詞三浦徳子、作曲沢田研二自身を中心とした時期 安定】  1980~1982年

「酒場でDABADA」「おまえがパラダイス」「渚のラブレター」

「ストリッパー」「麗人」「おまえにチェックイン」「6番目のユウウツ」

1980年はセールス面でやや低迷傾向が見えましたが、1981年、1982年は安定してトップ10入りヒットを出していきます。新たに作詞家としては三浦徳子を起用することが多くなり、7曲中4曲が三浦徳子作詞。また「コバルトの季節の中で」以来の自身作曲が「渚のラブレター」「ストリッパー」「麗人」と3曲続き、いずれもヒットします。しかしながら結果として「6番目のユウウツ」が最後のトップ10入りのヒットとなりました。

 

【多彩な作家を起用した時期 挑戦】  1983~1984年

「背中まで45分」「晴れのちBLUE BOY」「きめてやる今夜」

「どん底」「渡り鳥はぐれ鳥」「AMAPOLA」

この時期になると、今までに組んでいなかった作家陣との仕事が増えてきて、井上陽水、大沢誉志幸(「おまえにチェックイン以来」)、井上大輔、大津あきらと、音楽への貪欲さが感じられました。中でもジャングルビートに挑戦した「晴れのちBLUE BOY」は、歌詞も含めて驚きましたね。ただセールス面ではジュリーもいよいよ落ちてきたかといったところは否めず、10位代といったところが指定席になってきました。

 

【作詞・作曲とも自作 模索】  1985~1986年

「灰とダイヤモンド」「アリフ・ライフ・ウィ・ライラ」

それまでは作詞か作曲のどちらかを自身が担うといったことはありましたが、この2曲は作詞・作曲ともに沢田研二自身が行っています。

 

【ヒットチャートからの脱落】 1986年~

「女神」「きわどい季節」「ストレンジャー」他

いよいよセールス的に厳しくなってきて、ヒットチャートからは次第に遠ざかっていくようになりました。

 

 

■売上枚数 ベスト5   

1 時の過ぎゆくままに 91.6万枚

2 勝手にしやがれ 89.3万枚

3 危険なふたり 65.1万枚

4 憎みきれないろくでなし 62.5万枚

5 追憶 57.9万枚

おなじみのヒット曲が並んでいるといった感じですね。特徴としては時期がかなり散らばっているという印象で、特定の時期に山ができて売上上位が集中していることはありません。上位10位にまで広げると、足掛け9年に渡って大ヒットを生み出しているというところで、ジュリーのスターとしての活躍期の長さを改めて認識させられます。

 

 

■最高順位 

1位 …  危険なふたり、追憶、時の過ぎゆくままに、勝手にしやがれ、ダーリング

2位 …  サムライ 

1位獲得は5曲で、うち売上枚数ベスト10に入っているのが4曲とかなりリンクしています。こうしてみると、ジュリーの曲なら何でも買うといったファン層に支持されているというよりは、作品が好きだから買う、いい作品だから買う、世の中でヒットしているから買うというような、大衆に支えられていたアーティストだったのだということが分かります。

 

■代表曲

1 勝手にしやがれ

2 時の過ぎゆくままに

3 TOKIO

4 危険なふたり、サムライ、ダーリング、カサブランカ・ダンディ…

ヒット曲が多いので選択したい曲が多いのですが、曲の使われ方とか知名度とか話題性とかいろいろ考えると、レコード対象曲「勝手にしやがれ」、売上1位の「時の過ぎゆくままに」、派手な衣装であっと言わせた「TOKIO」、といったようなイメージです。

 

 

■好きな曲 ベスト7

1 OH!ギャル

2 ダーリング

3 麗人

4 おまえにチェックイン

5 カサブランカ・ダンディ

6 勝手にしやがれ

7  晴れのちBLUE BOY

どうしても外したくない曲が7つあったので、7位までとしました。「OH!ギャル」はジュリーの王道からはややはずれた曲ですが、小学生にはけっこう刺激的な歌詞で、インパクトはありました。「ダーリング」「麗人」「カサブランカ・ダンディ」「勝手にしやがれ」はジュリー的な王道作品でかっこよさ全開、「おまえにチェックイン」は数少ないポップで明るいメロディーが好きで、「晴れのちBLUE BOY」のぶっ飛び具合にしびれました。

 

 

「勝手にしやがれ」「時のすぎゆくままに」をはじめ、枚数的に売れている曲は、基本的には代表曲的な存在になっています。ただその中で「TOKIO」だけは、当時のインパクトや現在での使われ方からすると、売上上位10曲にも入っていないというのは、やや意外な感じはあります。

結論:概ね代表曲は売上でも上位だが、一部に例外もある