80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.297
悲しい色やね 上田正樹
作詞 康珍化
作曲 林哲司
編曲 星勝
発売 1982年10月
有線から火がつき大ヒット、上田正樹の名前を全国区へのし上げると同時に、それまでの大阪ソングのイメージを変えた一作
上田正樹は1972年にデビューし、その後グループでの活動に形を変えるものの解散。レコード会社を変えながら音楽活動を行っていましたが、ヒットには恵まれず、一般にはあまり知られた存在ではありませんでした。しかしながら1982年に発売した『悲しい色やね』が有線放送をきっかけにじわじわと売れ始め、シングルチャートもどんどん上昇し、ついにオリコン最高5位、売上34.8万枚という大ヒットとなったのです。上田正樹にとっては最初のトップ100入りが、キャリア唯一のトップ10入りの曲ともなったわけですが、演歌のような売れ方をしていったのです。当時はテレビ以外にも、有線をきっかけに火がついて売れていくというパターンもあって、まさに『悲しい色やね』はそのパターンだったのですね。私自身、ラジオのチャート番組でこの曲が順位を上げてくると、上田正樹とはいったい何者だって、テレビでも見ることはないし、当時はほんとうに謎の存在でもありました。
そんな上田正樹が歌う『悲しい色やね』は関西弁のタイトルどおりに、大阪を舞台にした楽曲でした。この当時、大阪を舞台にした歌というと、どうしてもコテコテの演歌・歌謡曲というイメージがついて回りました。欧陽菲菲『雨の御堂筋』(1971年)、海原千里・万里『大阪ラプソディー』(1976年)、都はるみ『大阪しぐれ』(1980年)『ふたりの大阪』(1981年)、都はるみ・岡千秋『浪花恋しぐれ』(1983年)などがヒット、若干異質なところではBORO『大阪で生まれた女』(1979年)がありますけれど、こちらもテイストは歌謡曲っぽいですしね。とにかく泥臭い、飲んだくれ、人情というイメージが先行し、おしゃれなイメージは大阪ソングにはありませんでした。では東京はどうかというと、もちろん演歌もたくさんありますが、アイドルやミュージシャンも普通に東京の歌を歌っていたのですよね。沢田研二『TOKIO』(1980年)、田原俊彦『原宿キッス』(1982年)、サザンオールスターズ『東京シャッフル』(1983年)、堀ちえみ『東京Sugar Town』(1984年)、アン・ルイス『六本木心中』(1984年)など、キラキラギラギラとして都会のイメージで埋め尽くされています。
そんな中で登場したのが『悲しい色やね』であり、それまでの大阪ソングのイメージを変えるきっかけにもなるヒットとなったのです。これなら10代の若者でも周りの目を気にせず聴いたり歌ったりできる、当時ティーンだった私にはそう感じたのです。どこか歌謡曲っぽいテイストを残しつつも、当時の日本としては新しいR&Bミュージックを取り入れ、関西弁でも十分におしゃれになるし、カッコ良くもなるというのを、ちゃんと示してくれたそんな一曲だったのです。
歌詞はというと、大阪湾を背景にした別れの曲になっています。しかも女性の歌詞になっていて、女性の関西弁による別れの歌を、ちょっと強面風の上田正樹が歌うことで、妙に色っぽく聴こえるのですよね。
《泣いたらあかん泣いたら せつなくなるだけ》
《おれのこと好きか あんた聞くけど そんなことさえ わからんようになったんかい》
《夢しかないよな男やけれど 一度だってあんた憎めなかった》
《今日でふたりは終わりやけれど あんたあたしのたったひとつの青春やった》
と、まあせつないではないですか。
ひとつの恋愛の終わりが青春時代の終りでもあり、それを静かに見つめる大阪湾。
《大阪の海は悲しい色やね さよならをみんな ここに捨てに来るから》
上田正樹はその後も『レゲエであの娘を寝かせたら』(1983年9月)、『TAKAKO』(1984年5月)といった味わいのある作品を発売しましたが、いまひとつヒットには結び付きませんでした。それだけになおさら『悲しい色やね』の存在は、上田正樹にとっても、大阪にとっても、かけがえのない一曲になったのではないでしょうか。