80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.292
唇をかみしめて 吉田拓郎
作詞 吉田拓郎
作曲 吉田拓郎
編曲 広島二人組
発売 1982年3月
70年代に一時代を築いた拓郎が、80年代に入り最後の輝きを見せた意欲作
吉田拓郎といえばやはりその全盛期は70年代。オリコンナンバー1ソング『旅の宿』(1972年1月)をはじめ、『結婚しようよ』(1972年1月)、『となりの町のお嬢さん』(1975年9月)などがヒットし、一時代を築きました。しかしながら80年代が近づくと次第に失速し、シングルのヒットからは遠ざかっていきます。80年代に入ってもその流れは継続し、ライバル井上陽水が80年代から90年にかけても時折ヒットを放っていたのに比べると、やや寂しい状況ではありました。しかしその中では1982年に発売した『唇をかみしめて』は最後の輝きを見せるかのように、オリコン最高18位、売上9.7万枚と80年代以降の拓郎としては最高の売上を残したのでした。
この『唇をかみしめて』の発売に関しては、実は当時レコード業界の話題になったことがあります。それはその値段。当時シングルレコードは概ね700円で発売されていました。もちろん消費税などありません。そんな中でこの『唇をかみしめて』は1枚400円で発売されたのですよね。小中高生がおこづかいで買うには700円は高いねという声が多い中で、安く借りてカセットテープに録音して返すという形のレンタルレコードが登場し始めたこの時代。吉田拓郎は危機感を覚えたのかもしれません。通常A面B面と2曲あるところをA面だけの1曲にする代わりに、値段を400円に下げて売り出すという画期的なことをしたのです。2曲で700円と1曲で400円。1曲あたりで比較すると割高になってしまうのですが、そもそもB面のほとんどはおまけのようなもの。A面だけ聴ければ十分なのに、さして聴きたくもないB面の曲の分までお金を払わないといけないのは納得がいかないと思っている人々にとっては、むしろ喜ばしいことだったのかもしれません。400円になったことで売上に結びついた分がどれだけぁったかは分かりませんが、久しぶりのシングルチャートトップ20入りには、この400円という値段が、いくらかは貢献したのではないでしょうか。
しかし『唇をかみしめて』は400円という価格の話題だけではありませんでした。武田鉄矢主演映画『刑事物語』の主題歌にも抜擢され、さらにその歌詞が広島弁で綴られているのですよね。
《ええかげんな奴じゃけ ほっといてくれんさい》
でいきなり始まり、その後は終始かなりきつめの広島弁で思いがぶちまけられます。
《行くんもとどまるも それぞれの道なんよ
人が生きとるねー 人がそこでいきとるねー
人がおるんよねー 人がそこにおるんよねー》
と実に味わい深いフレーズで語られているのです。当時35歳の吉田拓郎。新しい若者の生き方や文化を歌う代表的フォークシンガーから、少し人生を重ねて大人のアーティストへと移行していく中で、こういった歌を説得力を持って聴かせられる年代になっていたのですね。
当時中学生であった私には、この曲の良さはなかなか分かるものではなく、どうせ安くなったから売れたんだろうぐらいにしか思っていませんでしたが、改めて『唇をかみしめて』を聴いてみると、けっしてそればかりではなく、やはり作品の魅力があってこその売上だったのだと納得できるのです。これ以降はなかなかヒットに結びつかなくなっていく吉田拓郎ではありますが、年相応にまるくなってKinKiKidsらとテレビで歌ったり演奏したりしている姿も、またそれはそれで味わいのあるものに感じられたものです。