80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.66
内気なキューピッド 島田奈美
作詞 EPO
作曲 EPO
編曲 清水信之
発売 1987年5月
優等生アイドルが歌う、とびっきりキュートで愛らしい、内気な女の子の恋の顛末ソング
島田奈美は1986年5月に『ガラスの幻想曲』で歌手デビューしました。当時、西村知美や杉浦幸、森口博子、畠田理恵、酒井法子ら多数のアイドルを輩出したモモコクラブの一員であり、デビュー時点である程度の支持を得ていたこともあり、デビュー曲はオリコン最高19位というまずまずのスタートとなりました。さらに2枚目『負けないで 片想い』(1986年8月)は15位、3枚目『パウダー・スノーの妖精』(1986年11月)が12位と、少しずつ最高順位を上げていくことになります。彼女の楽曲はそれこそまったく奇を衒うことのないストレートど真ん中の正統派アイドルソングばかり。これは島田奈美自身のキャラクターとも被ることになり、印象としてはとにかく真面目。天然系の西村知美やスレた風(ドラマの影響が大きいのですが)の杉浦幸、或いはあとからデビューした作り物的な元気印の酒井法子と比べると、島田奈美はまさに優等生アイドルといった立ち位置にいました。おそらく島田奈央子としてのその後の活動を見ると、実際にも頭が良くて、優等生だったのだろうなという想像はできます。
当時私の通っていた大学に島田奈美のお兄さんが通っていて、テレビの音楽番組にも「兄です」と紹介されていた記憶があります。ある冬に友人に「スキーに行かないか」と誘われたものの、気が進まずに断ったことがあったのですが、実はそのスキー旅行に島田奈美のお兄さんも参加していて、一緒に過ごしたということをあとから友人から聞き、ちょっとだけ後悔したことがあります。参加して繋がりをつけたら、もしかして…なんて、ありえないことを考えたりもしたわけなのですが…。
さて1987年になり、4枚目のシングル『Free Balloon』で最高9位と、初めてオリコンのトップ10入りを果たすことになり、売上枚数的にもキャリア最高の4.5万枚を記録したのです。そして、次の5枚目のシングルとして発売されたのが今回取り上げた『内気なキューピッド』であり、結果として見事オリコン自己最高の7位を達成しました。この『内気なキューピッド』は前後の曲とはやや印象の異なる作品で、“可愛い”を全面に打ち出したとてもキュートな作品になっています。作詞・作曲がEPOということで、トップ10入りを達成したところで、ちょっとだけ捻ってきたような印象は受けたのです。彼女の楽曲は、作詞は森雪之丞や松本隆が担当し、作曲は林哲司、井上ヨシマサ、中崎英也といった作家が担ってきました。特に作曲陣をみると、キャッチーで耳障りの良いメロディというイメージで、正統派の彼女にはぴったり。そこに彼女のキャラクターに会った歌詞を、アイドルの歌ならお手の物の松本隆や森雪之丞がつけるわけですから、実は楽曲的にはいずれも完成度の高い曲が揃っているのです。ただこの『内気なキューピッド』については、専門の作詞家・作曲家でないEPOが担当したということで、ど真ん中ストレートばかりではなくて、ちょっと変化球も見せたかったという思惑があったのではないかと推測するわけです。
そのEPOですが、自分以外の歌手への楽曲提供はそこそこしてはいるのですが、シングル曲でのヒット曲というと実はそれほど多くなくて、高見知佳『くちびるヌード』、松本典子『春色のエアメール』(ともに作詞・作曲)、香坂みゆき『ニュアンスしましょ』(作曲)があるだけ。しかもいずれもオリコントップ10には入っていないので、その意味で7位にはいった『内気なキューピッド』はEPOにとっても貴重な作品になったのです。
歌詞の内容は、とにかく可愛らしいです。朝のラッシュで見かける男の子に密かに恋した女の子は、内心で「好き」とアプローチしてくれることを期待しながら、毎日の通学時間を過ごしています。ところが、あるときその男の子を突然見かけなくなってしまい、学校内を探すのですが見つかりません。彼は卒業してしまったらしいのです。さみしい思いで窓の外をぼーっと眺めていたら、私服姿で「探したかいっ?」と姿を見せるということで、果たしてこれが現実なのか妄想なのか分からないのですが、内気なキューピッドに《ふたりの恋に まほうの粉をかけてほしい》と願いを託し、歌は終わっていきます。それまではあまり可愛い可愛いした作品を歌っていなかった分、新しい島田奈美の魅力を感じさせる一曲でありました。お世辞にも島田奈美の歌唱力は高いとは言えず、それまでの正攻法のメロディラインの楽曲では不安定さが露呈しがちであったのですが、『内気なキューピッド』はそのあたりも目立たなくさせる若干のトリッキーさがあって、その点でも彼女に合っていたのではないかと思っています。
1987年は島田奈美にとっては結果的にピークの1年となり、6枚目『パステル・ブルーのためいき』(1987年5月)が7位(これも名曲)、7枚目『ハロー・レディ』(1987年11月)が10位と、リリースしたすべての曲がトップ10入りを果たしています。オリコントップ10入りは翌年の8枚目のシングル『タンポポの草原』(1988年2月)の9位まで続きますが、9枚目『NO!』(1988年5月)以降は徐々に売上を落としていくことになり、1990年を限りに芸能活動から引退することになりました。ただ現在は本名の島田奈央子の名前で、ジャズを中心に音楽ライターとして活躍。プロデュースやディスクジョッキーの仕事にも携わっているようですが、あまりアイドル時代のことは語らないようです。あの人は今的な番組でも見かけることはないですし、そのあたりはちょっと残念。本人にとっては黒歴史なのでしょうか。