80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.53
麦わらでダンス 生稲晃子
作詞 秋元康
作曲 後藤次利
編曲 後藤次利
発売 1988年5月
やや遅きに失した感があった、おニャン子後期の人気メンバーの待ちに待ったソロデビューシングル
生稲晃子は特におニャン子クラブ後期において人気のあったメンバーの一人で、生稲ちゃんはいつソロデビューするのかと、シングル曲の発売が待たれる状態が長くつづいていました。同じく後期の人気を支えた渡辺美奈代、渡辺満里奈、工藤静香らが次々にソロデビューをしてオリコン1位を獲得するのを横目に、生稲晃子はうしろ髪ひかれ隊という3人組でのシングル発売はあったものの、どうしたわけかソロデビューにはなかなかたどりつけませんでした。その理由の一つして考えられるのは大学受験の問題で、一時期受験勉強のために活動を休止していたこともあり、そのあたりも遅れてしまった要因なのかもしれません。当時私のいた大学にも、「生稲晃子がうちの大学を受験するらしいぞ」という噂が立ちまして、半信半疑で聞いていた覚えがあるのですが、しばらく経って「生稲晃子、うちの大学落ちたらしいぞ」と聞き、果たしてそれが本当なのか嘘なのか分からないままで終わってしまったということがありました。
そんなこんなで、おニャン子クラブも1987年8月に解散してしまい、メンバーたちはそれぞれの道へと進んでいきます。もちろん芸能界に残るメンバーも多く、生稲晃子も芸能界の仕事を続けていくことになりました。ただ当然ながら、毎週のようにメンバーのシングルが入れ替わり立ち替わりでオリコン1位を獲得していた頃の勢いはなく、ソロ歌手として引き続きセールスを確保できていたのは工藤静香ぐらいで、他のメンバーは活動するフィールドを別の方面へと移していくのでした。ところが生稲晃子だけは、主要メンバーの中でソロデビューを果たせずに終わってしまったこともあり、周りも歌手としてのソロデビューのタイミングを見計らっていたのではないでしょうか。そうした状況でようやくリリースされたソロデビューシングルが『麦わらでダンス』だったのです。
作詞・作曲はおニャン子クラブ関連の多くを手掛けた秋元康と後藤次利のコンビということで、このあたりはきちんとバックアップ体制は敷かれていました。一応アニメの主題歌というタイアップもつき、満を持してのデビューという形で送り出された生稲晃子だったのですが、いかんせんおニャン子はすでに解散していて、旬を過ぎていたのです。かといって工藤静香のような歌唱力があるわけでもなく、このタイミングでのソロデビューは、正直なところ遅きに失した感は否めませんでした。オリコン最高順位は8位と、最低限の面目は保ったものの、おニャン子活動中にデビューした他のメンバーに比べると、この8位という結果は見劣りしてしまいます。解散前にソロデビューしていたら、おそらく彼女も1位やそれに近い成績はとれていたでしょう。なにしろ吉沢秋絵や福永恵規、城之内早苗でも1位を獲得しているのです。
さらには『麦わらでダンス』の楽曲もいまいちの出来だったというのもあるかもしれません。よく言えば無難なのですが、なんの特徴もなく工夫がみられないデビュー曲で、彼女の個性に合わせて作られたようにもあまり思えないのです。誰が歌ってもいい無個性の曲で、勢いに乗っているときはこれでもいけるのでしょうが、母体がなくなった状態で勝負しないといけない状況では、ちょっと辛かったかもしれません。詩の内容は、つきあって1年経っても指にも触れてくれない男の子に対する不満を歌っているのですが、松田聖子『赤いスイートピー』の半年のさらに上を行く奥手ぶりを歌っています。ただ残念ながら、出来栄えとしては『赤いスイートピー』とは段違いだったのです。
ただそうはいっても、実は8位というのは、見方によっては健闘したともいえるのです。同じうしろ髪ひかれ隊のメンバーだった斉藤満喜子が2か月後の1988年7月にソロデビューしたのですが、最高が28位だったのです。またあれほどの人気を誇った渡辺満里奈の1988年6月発売シングル『夏の短編』が9位、同じく渡辺美奈代の1988年5月発売シングル『ちょっとFallin’ Love』が6位でしたから、同等の人気を保持していたということにはなるかもしれません。
その後2ndシングル『Virgin少年に接吻を』が9位になりましたが、それ以降はジリ貧に。ただ芸能界では地道に活躍を続け、数年前にがんを患っていることを公表した際には、おおらかな普段のキャラクターとは違う気丈な一面をみせたりもしていましたね。