80年代青春歌謡365アーティスト365曲 vol.25
RUNNING TO HORIZON 小室哲哉
作詞 小室みつ子
作曲 小室哲哉
編曲 小室哲哉
発売 1989年10月
自分でも歌いたくなったか、母体TM NETWORKの勢いに乗じてリリースしたTKのソロデビュー曲
小室哲哉が日本の音楽界を席巻するのは90年代になってからですが、80年代後半から作曲家・編曲家として他のアーティストやアイドル(渡辺美里、中山美穂、小泉今日子、宮沢りえなど)に提供した曲がヒットしたり、所属するTM NETWORKがブレイクしてヒットを連発したりと、徐々にその名前を轟かせ始めていきます。当時はまだ作詞には手を出しておらず、作曲や編曲のみではありましたが、稀代のヒットメーカーとしての地位を手に入れるまでの基礎を築いていたそんな時期になります。
ただTM NETWORKのボーカルはあくまでも宇都宮隆であり、同じ3人組のTHE ALFEEのように、曲によってボーカルを変えてくるといった戦略はとっていませんでした。自分の作った曲が他人のボーカルによってヒットしていく様子を見て、自分で歌いたくなったのでしょうか、とうとう1980年代も押し迫った時期に、ソロシングルを出してきたのです。それも3か月連続で3枚というスピードで! 小室がソロでシングルを出すみたいだよと聞いてからは、いったい小室哲哉はちゃんと歌を歌えるのか、ソロシングルを出すほど歌に自信があるのか、そんな興味深々状態で待っていたわけなのですが、そんな中でソロデビュー曲として発表されたのが『RUNNING TO HORIZON』だったというわけです。
それでもって発売された『RUNNING TO HORIZON』を聴いたところ、ボーカルは想像以上でも想像以下でもなく、ああ、小室哲哉が歌うとやはりこんな感じなんだなといった、細く淡々とした歌声であはありました。まあ、ボーカリストとしてやっていくには、ちょっと頼りない歌声であり、あくまでも作曲家が歌も歌ってみたよという範疇なら許せるかな、ぐらいの印象でしたね。それでもやっぱり、そこそこ売れてしまうのは、TM NETWORKという母体や作曲家としての実績がベースにあったからということでしょう。加えてTM NETWORKつながりのタイアップとしてアニメ『シティハンター3』の主題歌になっていたこともあり、オリコン初登場1位を獲得したのでした。
『RUNNING TO HORIZON』の作詞は、当時TM NETWORKの作詞も多く手掛けていた小室みつ子。血縁関係も婚姻関係もない偶然の同姓の作詞家・作曲家コンビということで、時折話題になったりもしましたが、当時はTM専属作詞家的なイメージがあり、このソロ曲についても小室サウンドをよく理解しているということで、お願いしたのでしょう。小室みつ子がTM NETWORKに書く詩は、詩のストーリー性というよりも、小室の作る音に印象的な言葉をどうはめるかということが重視されているように思え、観念的、象徴的な内容が多かったのですが、特にこの『RUNNING TO HORIZON』の詩はその印象が強いです。《眠れない午前二時》《いらだちがドアをたたく》《霧に閉ざされたモーターウェイ》《手がかりのない夜空》《標識のない道》…ひっかかりのある言葉をつないでひとつひとつのワードにはインパクトがあっても、それらが繋がって一つになった時には、心にずしんと圧し掛かってくるようなところがなく、あっさりとクールに音と一緒にただただ流れていくといった感じなのです。あくまでも主役は小室哲哉の創り出す音でありメロディであり、詩は脇役、そんな気がします。自らが歌うこの曲については、ボーカルさえも主役でなく脇役で、一番聴かせたいのは自分の歌ではなく、詩と曲と音と声が一体となった音楽だったということなのでしょう。その意味で、小室みつ子と小室哲哉の相性が抜群だったということなのかもしれません。
ですから、この歌はTM NETWORKの曲としてリリースされてもまったく違和感がないでしょうし、実際に後年宇都宮隆がカバーもしているようです。もしかすると小室哲哉のソロ・プロジェクトは、あまり他のアーティストに迷惑をかけない形で実験をするために、自らが実験台となるための企画だったのかもしれません。実際2ndシングル『GRAVITY OF LOVE』では、いよいよ作詞にも挑戦することになめのです。自分の書く詩でもいけるのか、そこでうまくいけば、他のアーティストへ詩の提供もしていけるのではないか、そんな狙いがあったかどうかは分かりませんが、実は90年代の作詞家小室哲哉としての活動への布石となったのも、このソロ・プロジェクトだったように思います。
3連続ソロ・シングルは『GRAVITY OF LOVE』がオリコン1位、『CHRISTMAS CHORUS』が同2位と上々の結果を残し、その後もソロシングルは不定期に発売されていきます。ただやはり小室哲哉が本領を発揮する場所は、やはり他のアーティストへの提供という形で、ミリオンセラーを連発するようになるのは、90年代になってからというわけなのでした。