オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

故ルー・タイスの魂を受け継ぐ魔法使いの一人として、セルフコーチングの真髄を密かに伝授します

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「認知科学に基づくコーチングを学んだ」とか何とか言う人が増殖中らしいです。そういう方々は様々な情報発信をなされてますので、コーチ様クライアント君の架空の対話もリアルに想像できそうです。

 

クライアント君
「コーチ様、ゴールを設定するとはどういうことでしょうか。ゴールを設定したと主張するだけでなく、実際にゴールに向かって動き出すにはどうすべきかの質問です。」
コーチ様
「それは汝のコンフォートゾーンをゴールの側にずらすのじゃ。さすればホメオスターシスの霊妙なる自律調整作用により、ゴールに向かって勝手に動き出すであろう。」
クライアント君
「うへー。なんという有難いお教えでしょうか。コンフォートゾーンをずらすことでホメオスターシスの自律調整作用が得られるのですね。どのようにすれば、コンフォートゾーンをずらせるのでしょうか。」
コーチ様
「うむ、それは自己イメージを変えて、エフィカシー(自己評価)の高い自己イメージを構築することじゃ。なぜならコンフォートゾーンは自己イメージが決めるからじゃ。」
クライアント君
「なるほど大変よく分かりました。有り難や有り難や。ところでどうすれば、自己イメージを変えることができるのでしょうか。」
コーチ様
「ゴールを設定することにより、エフィカシーの高い自己イメージは得られるのじゃ。」
クライアント君
「全く感嘆すべきお教えです。ならばゴールを設定するとはどういうことなのでしょうか」
コーチ様
「ゴールを設定するとは、コンフォートゾーンをずらすことじゃ。」
クライアント君
「してコンフォートゾーンをずらすとは。」
コーチ様
「自己イメージを変えることじゃ。」
クライアント君
「それは、つまり・・・。」
コーチ様
「ゴールを設定することじゃ。」
・・・以下無限ループに突入

 

この対話、なぜゆえ無限ループに突入したのでしょうか。
理由は簡単、トートロジー(同義語反復)であるからです。
ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーン、これらの用語はどれもマインド(脳と心の働き)を記述するためのものです。「ゴールを設定する」「自己イメージを変える」「コンフォートゾーンをずらす」はいずれも、「マインドを変える」という趣旨を異なる言葉で表現しているだけです。
だから上記の対話は、「マインドを変えるには、マインドを変えろ」のトートロジーであり、無限ループに突入します。

 

マインドとは脳と心の働き、つまり働き(作用・機能)につけた名前です。決してマインドという思惟(心的)実体があるのではありません。
ということは、ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンといった思惟(心的)実体があるのではありません。

 

抽象度の高い脳の情報処理作用を「心」と呼んでいます。「心」という実体があるわけではありません。
生体の働きとしての様々な現象を「生命」と呼んでいます。「生命」という実体がある訳ではありません。
認知科学を含むファンクショナリズムのハードコアな世界観にあっては、働き(作用・機能)が全てです。

 

「認知科学に基づくコーチングを学んだ」とか何とか言っても、前提となる世界観を理解できずにキーワードを暗記するだけでは、ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンといった実体があるかのような話になってしまいます。
上記の無限ループはその例です。

 


ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンはマインドを観る視点

 

ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンは機能を記述する用語です。様々な用語があるのは、異なる視点から機能を観るためです。

 

マインドとは、今この瞬間の脳内情報処理のことです。
宇宙は瞬間瞬間(刹那)で新たに生み出される離散的な情報状態である」との仏教的宇宙観は、認知科学以降の世界観と合致します。

 

人間は、自分自身の情報処活動を理抽象化することで、情報処理自体を情報処理することができます。「一瞬前の判断・行動(情報処理)はどうだっただろう」と内省的に評価することです。内省的評価はもちろん脳内情報処理活動です。魂の働きとか何とかのオカルトではありません。

 

宇宙に同じ状況は二度とないので、同じ情報処理は有り得ません。それでも情報処理活動を抽象化することで、その傾向を記述することは出来ます。
記述するとは今この瞬間の脳内情報処理(認識作用)であり、抽象化された傾向が実在するわけでは全くありません。

 

身体反応を含む具体的な傾向を、分野別各論的に記述する視点がコンフォートゾーンです。身体反応を含む情報処理傾向は、分野ごとに「快適(コンフォート)とされるレベル」という記号により表現されます
分野別に表現された傾向を抽象化して、統合された人格の全体像として把握すると、自己イメージとなります。分野別の各傾向は、全体像のなかでバランスが保たれています
その自己イメージを保持したまま、時間座標を未来へ移動(これは時空を超える抽象化作業)した際に、選択し得る可能性世界がゴールです。

 

以上は視点の違いを明確化するために、具体的な情報処理から抽象度の上がる方向で提示しました。しかし瞬間毎になされる認知活動では、サンプルを集めて抽象化してゴールを決めるようなことはしません。サンプルの組み合わせパターンが無数にあり、抽象度を一つ上がるごとに計算量が爆発し、脳の情報処理が追いつかないからです。
可能性未来の選択が先にあり、その枠内で人格の全体像が規定され、その枠内での各論的な傾向の記号的表現があり、さらにその枠内で今この瞬間の情報処理(判断・行動)がなされます。
この関係を比喩的に表現したのが時間は未来から過去に流れる」です。

 

言いたいことは、ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンはマインドのダイナミズムを観る視点であるということです。

 

 


セルフコーチングの肝中の肝

 

ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンの視点の違いは、抽象度の違いであると分かりました。
ゴールとは抽象度の高い視点であり、情報量が少ないので時空を超えて俯瞰可能ではあるが、臨場感が低く漠然としか感じることができない
コンフォートゾーンは具体性の高い視点であり、情報量が多いので身体反応を含むほど臨場感が高いが、現在の働きに限定される。
自己イメーシはその中間ということになります。

 

この違いから重大な原則が導かれます。セルフコーチングの肝中の肝とも言うべき原則です。
ゴールの世界は想像できないが、ゴールの世界で持っているべき人格の全体像(自己イメージ)は想像できる」ということです。
人格の全体像が想像できれば、その具体的な記号的表現である現在持っているべきコンフォートゾーンは、必然的にリアルに決定されます。
換言すると、ゴールに臨場感は持ち得ないが、ゴールを前提とした現在のあるべき姿にはリアルな臨場感が持てるということです。
分かりやすい例えでは、天国(ゴール)は想像できないが、天国に入れる人格は想像でき、天国に入るために今なすべきことはリアルに分かるということです。

 

漠然としたゴールの世界を、言葉で表現することは全く不可能ではないが、相当困難です。簡単に言語化できるゴールは、他者からの洗脳誘導である可能性が高いです。

リアルな臨場感を持てる世界はゴールとは呼ぶに値せず、現在の延長に過ぎません。「ゴールの世界の臨場感を上げろ」とか何とか言う話があったら、説明として極めて不十分かつ不適切です。

 

それはともかく、「ゴールを前提とした現在のあるべき姿にリアルな臨場感」を持てればメデタシメデタシではありません。それはあるべきコンフォートゾーンを想像しただけです。想像だけで終わっては何にもなりません。

 

ゴールを前提としたあるべきコンフォートゾンを想像したら、今この瞬間に実際に機能しているマインドのコンフォートゾーンと比較する必要があります

人間にとってマインド(脳の働き)が全て。マインドから外れた世界は知り様がなく,コンフォートゾーンの外側は見えないからです
想像上のコンフォートゾーンとの比較しない限り、実際に機能しているコンフォートゾーンの問題点は決して見えません。全てが当たり前で「そういうもんだ」と認識されるからです。

 

問題点が見えない限り修正は不可能です。従来、当たり前であったことを問題として発見・認識することが、マインドを変える第一歩となります。「変えるべきマインド」の発見です。

このプロセスを省力して「マインドを変えた」と主張するだけで終わると、冒頭の無限ループに陥ります。
問題点を直視したうえで、前向きなフィードバックを行うことを、セルフトークのコントロールと言います。問題点を見なかったことにして、全てが順調であるかを主張することは、セルフトークのコントロールとは正反対の欺瞞です。

 

天国に入るために今なすべきことは分かったけど何もしない。その代わり善行をなしたと主張だけはする。そんな奴は閻魔大王の裁きを受けます。
問題点を発見しようとせず、つまりフィードバックも行わず、「コンフォートゾーンをずらした」「自己イメーシを変えた」「ゴールを設定した」と言葉で主張するだけの奴も、閻魔大王の裁きをうけ無限ループが待っています。

「時間は未来から過去に流れる」とは、
宇宙は瞬間瞬間(刹那)で新たに生み出される離散的な情報状態である」との宇宙観を比喩的に表現したものです。
人間にとって、今この瞬間の脳内情報状態だけが宇宙の全てであり、それ以外は認識不可能であるからです。
刹那瞬で生まれる宇宙(脳内情報状態)は、可能性未来の選択(未来予測)の枠内で、整合的に現在・過去の認識・解釈がなされます。この整合性を「時間は未来から過去に流れる」と表現しました。

 

認識活動と無関係な(アプリオリな)、「時間」という実体が実在して、何処からか流れて来る意味ではありません。
ましてや、「ゴールを設定した」と言葉で主張すれば、「未来から時間を流せる」特権的な超能力を発揮できるとかできないとかの、カルト話ではありません。

 


目の前の世界は記憶で合成されている

 

時間は未来から過去に流れる」宇宙観について改めて強調しておくことがあります。
「未来の可能性世界は、想像力の及ぶ範囲内で選択できる」ということです。
そこで質問
想像力は有限でしょうか、無限でしょうか。
答え
想像力は有限です。
答えに驚いた人は、「想像力は無限」という言葉を他人から刷り込まれているからかも知れません。

 

 

部分情報に生きる人間は、知識のないことはそもそも認識できません。それでも既存の知識(記憶)を抽象化することで、認識範囲を広げることはできます。黒板の知識を抽象化することで、ホワイトボートや電子黒板が認識できます。
知識がなければ想像もできないのであり、知識(記憶)抽象化の限界が想像力の限界ということです。黒板の既存知識がなければ、黒板に変わる未来の掲示装置を想像することはできません。想像される掲示装置がどれだけ画期的かは、黒板の既存知識をどれだけ抽象化できるか次第です。画期的とは、誰もの想像を超えている意味です。それは予測不可能なランダムな選択であることを意味します。
つまり未来の選択(未来予測)は、既存知識とその抽象化の程度により枠組みが決まり、その枠内でランダムな選択が可能というわけです。

 

人間の認知は、未来予測の枠内で整合的に現在の認識がなされます。ということは現在の認識は、既存知識と抽象化能力の枠内でのランダムな選択のそのまた枠内ということになります。
時間は未来から過去に流れる」をルー・タイス風に言い換えると、「ゴールが認識を作る」プリンシプルとなります。
しかし「ゴール」とは完全自由なランダムな選択ではなく、既存知識と抽象化能力の枠内でのランダムな選択です。

 

既存知識と抽象化能力による選択の限界があるということは、簡単に言い換えると、記憶による限界があるということです。
つまり「目の前の世界は記憶で合成されている」ということです。
これは所謂・苫米地理論と呼ばれるもののコアをなすものです。

 

目の前の世界が、時間経過にも係わらず連続している様に見えるのは、記憶の連続性があるかです。目の前に見えている「存在」が実在している訳ではありません。
「存在」とは、今この瞬間に記憶から合成される脳内情報状態です。それが認識活動とは無関係に先験的(アプリオリ)に実在している様に思えるのは、経験的に感じているだけの錯覚、つまり幻想です。
これは、「脳内情報状態のみが認識可能な全てである」との前提を正(true)とするならば、当然の帰結となります。

 


ゴールがなければ死んでしまう

 

改めて「ゴールが認識を作る」プリンシプルを考察します。
逆に見れば、ゴールを失うことは認識作用を失うことを」意味します。記憶の範囲内であっても、現在の認識は未来予測(可能性未来の選択:ゴール)の枠内で整合性が保たれているからです。

 

アメリカでの研究ですが、職業キャリア上のゴールを達成し引退した人は、平均18ヶ月で死去しています。
引退から死去まで18ヶ月あるのは、職業キャリア上のゴールは人生の一部に過ぎないからと思われます。一部のゴールを達成してから全てのゴールを失うまで平均18ヶ月ということでしょう。
ゴールを失うとは、生きる理由を失うことであり、整合的に生命活動も静止します。

 

ということは、生きて認識活動をしている限り、何らかのゴールを有していることになります。今、生きている人に限れば、ゴールが有るとか無いとかが問題になることは、そもそも有り得ない話です。
ただし「何らかのゴールを有していること」と「それを自覚(意識)していること」は全く別の話です。

 

そして大問題となるのは、その「ゴール」が自分で本当に望んだものか、あるいは他人から刷り込まれたものであるか、とうことです。
なぜなら、ゴールには記憶の限界があり、記憶とは外部から偶然やって来た情報であるからです。

 

 


トンチンカンな話

しかし不思議なことに、ゴールが有るとか無いとかを問題にする人がいます。
さらに輪をかけて不思議なことに、「ゴールが無い人のゴール設定を手伝います」とか何とかをいう、コーチを名乗る有象無象がいることです。

 

「ゴールが無かったのにコーチのお陰でゴール設定できました」
とかいうトンチンカンな話も聞こえてきます。
ゴールがないと死んでしまう事実から、この話を解釈するとこうなります
「死んでいたのにコーチ様のお陰で生き返りました」
まるでカルト教団に洗脳された信徒のようです。

 

この手のトンチンカンは「ゴールを設定できた」としてドンチャン騒ぎをします。
「ゴールを設定した」と言葉で主張するだけで何かの偉業を成し遂げた積りになる、だからトンチャン騒ぎです。
しかし「ゴールを有していること」と「それを自覚(意識)していること」は全く別の話です。「設定できたゴール」が、今この瞬間の認識活動の基準(ゴール)として機能している保証はありません。どんなにドンチャン騒ぎをしても確約はされません。
より大きな問題として「設定した積りになっているゴール」が「本当に自分が望んだゴール」である保証もありません。「他人から刷り込まれたゴール」である危険があります。

 

今この瞬間の認識活動の基準として機能しているゴールは、目の前の世界を観察すれば分かります。目の前の世界とは現在の脳内情報状態であり、それは先験的(アプリオリ)に実在しているのではなく、認識活動の結果であるからです。

 


トンチンカンな話の出所

 

ゴールが認識を作る」プリンシプルも、「脳内情報状態のみが認識可能な全てである」との前提から帰結されるものです。「宇宙は刹那瞬で新たに生み出される離散的な情報状態である」との宇宙観を別の言葉で表現したものといえます。

 

脳内情報状態以外は知り様がないので、宇宙観のモデルに含めない」とするのが認知科学のパラダイムです。
網膜に写った二次元画像を、脳内で三次元に合成した情報状態が、日常的に経験する三次元空間です。そこに光の速度を加味した相対論の知識が加わると、四次元時空間のモデルが脳内に合成されます。さらに量子論の世界では11次元ないし5次元の脳内情報状態(モデル)となります。
脳内情報状態を生み出すに至った情報処理(関数:ファンクション)には目を向けますが、情報処理される以前の「生の真実の宇宙」は知り様がないので考慮しません。

 

そこから百尺竿頭に一歩を進めると、超情報場仮説のパラダイムとなります。脳内情報状態以外は知り様がないといえども、情報(関数も含む)は全て外部からくる。そこで情報の出所を仮説として提示することは、科学として矛盾しない。情報同士がダイナミックな相互作用をなす超次元の「」を、脳内情報状態の由来として想定するのが、超情報場仮説です。

 

では認知科学以前ではどうであったのでしょうか。
脳内情報状態のみが認識可能な全てである」とは考えていなかったのです。
なんと、認識活動とは無関係に「真実の宇宙」が実在し、原則として誰もが「生の真実の宇宙」を直接的に知覚可能と思っていたのです。
認識活動とは無関係に宇宙が実在していることを前提とすれば、「認識活動がなくても生きている=ゴールがなくても生きている」と帰結されます。「ゴールが認識を作る」ではなく、「ゴールがなくても真実を直接知覚可能」というプリンシプルになります。
だから「ゴールがないことが普通」であり、万一「ゴールを設定した」と言葉で主張するだけで「普通ではない=有り難いこと」となるのでしょう。

 

これでトンチンカンな話の出所が分かりました。
認知科学のパラダイムで語られる様々な説明を、認知科学以前のパラダイムで理解しようとするところに根本原因があったのです。

時間は未来から過去に流れる


これは、「過去の因果(原因)により未来が決まる」と洗脳されている奴隷達を、脱洗脳し解放するために、苫米地英人博士がひろめたフレーズです。

 

最近では、「コーチング理論を学んだ」と称する人たちが、このフレーズを訳知り顔で好んで語るのを耳にします。しかし、本当にこのフレーズの意義を理解して語っているのか、はなはだ疑問な場面も散見されます。

 


二つの宇宙観・時間観

 

「過去の因果により未来が決まる」とする宇宙観を比喩的に「過去から未来に向かって流れる時間観」と表現しました。
これは、創造主が世界を創ったとする、ユダヤ・キリスト教の伝統的な宇宙観・時間観です。「絶対神による宇宙創造からすべてが始まり、ビッグ・バンから玉突きをするように次々と因果が起こり現在にいたっている」と考えます。
言わば、最初の玉突きですべてが決まるとする確定的・機械的な宇宙観です。玉突きの起点をビッグ・バンとしても、今こことしても同じことです。因果律により常に確定的な結果が保証されると考えます。
この宇宙観では、過去から流れる時間の先にあるのは、確定済みの未来です。

 

対して、「時間は未来から過去に流れる時間観」は、仏教のアビダルマ哲学に由来する「因果による確定性を否定した」宇宙観・時間観を比喩したものです。
宇宙は瞬間瞬間(刹那)で新たに生み出される離散的なもの」と捉えています。
今の一瞬が一瞬で消滅して過去に流されていくのと同時に、一瞬にして次の瞬間が生み出されると考えます。
次の瞬間を生み出すのは、単調な因果ではなく、縁起(無数の要因)のダイナミズムによります。今の一瞬がどうであっても、次の一瞬にはランダムな不確定性が働くので、どうなるのか完全に予測することは不可能です。たとえ99%の確率で予測できても、一瞬が無限に連なると、最後は限りなく0%に近づきます。
この宇宙観では、時間とともに流れてくる未来は、未確定の可能性世界です。

 

未来に向かって行くのか、あるいは未来がやって来るのかは、視点の違いだけの些細な違いです。決定的な違いは、向かっていく先ないしやって来るものが、機械的に確定済なのか、あるいは未確定の可能性かにあります。

 


人間の認知現象から考える

 

ユダヤ教に由来する西洋文化、現代世界の法律や社会体制は、因果による確定的な宇宙観を自明な前提としています。
一方、西洋文化であっても不完全性定理や量子論以降の先端科学は、仏教の縁起による離散的な宇宙観を支持するに至りました。
量子論に触れなくても、人間の認知現象を考えれば、明らかに後者に軍配が上がります。

 

人間にとって、脳内情報状態以外は認識不可能であり、ないのと同じことです。認識活動と無関係な(アプリオリな)機械的因果が支配する宇宙は、そもそも存在しないのです。
認識活動は全て今この瞬間になされます。遥か未来の予測も今この瞬間の脳内情報処理であり、遠い過去の解釈も今この瞬間の脳内情報処理です。脳内宇宙(それが人間にとってのすべて)は全て今この瞬間の情報状態です。
宇宙は瞬間瞬間(刹那)で新たに生み出される離散的な情報状態」であることは、認知現象を考えると当然の帰結となります。

 

さらに加えると、瞬間毎に生まれる脳内宇宙は、離散的であると同時に不思議な整合性も保たれています。
最高の未来を本当に確信しているなら、整合的に現在も最高であると認識され、どんなに嫌な思いをした記憶があっても、最高な現在と未来に必要不可欠な過去であったと解釈されます。
未来予測の枠内で現在の認識がなされ、現在の認識の枠内で過去が解釈されます。この整合性を「時間は未来から流れる」と表現しました。

 

この整合性は大部分が無意識レベルで維持されます。そのほんの一部しか例外的に意識(自覚)されません。
整合性が維持されるために、刹那的かつ離散的な情報状態にも、過去現在未来の全てが潜在的に内包されていると言えます。仏教ではこれを一念三千と表現するようです。
意識(自覚)可能な一部を時系列的に並べることで、確定的宇宙観の誤謬を生み出してしまったと思われます。
未来が最高だと確信しているから現在も過去も最高である
とすべきところを誤って
未来が最高だと確信したから現在も過去も最高である
となってしまったのです。
たった一文字の違いですが、この違いは致命的に重大です。

 


矛盾する説明

 

確定的宇宙観により、現代社会は骨の髄まで洗脳されています。この洗脳が解けないまま、確定的宇宙観の枠組みのままで「未来から流れる時間」について語ろうとする人がいます。当然ながら支離滅裂な話となります。
例えばこんな感じ

 

ゴールを設定して未来を決めたので、未来から流れる時間の結果として今がある。
コーチになるというゴール設定により未来を決めたので、コーチになる方法が未来から流れてきて分かった。

 

時間は未来から流れると言っておきながら、過去の行為(ゴール設定)の因果として未来が確定した(結果が保証される)とも言っているのです。ベラボーな矛盾です。
ゴール設定を起点とした玉突きが始まり未来が確定し、それが時間の流れに乗ってUターンして今に戻ってきたという趣旨らしいです。訳が分かりませんが、確定的宇宙観の洗脳に閉じ込められたまま、語っているのは確かです。

 

離散的な可能性宇宙観に基づいて上記を書き換えると、こんな感じになります

 

今、未来のゴールを確信しているので、整合的な現在と過去の認識が成立する。
今、コーチになるとの従来にない未来予測が機能しているので、その枠内での現状認識として今まで見えなかった選択枝が見え、過去のゴール設定の因果とする解釈が整合的になされる。

 


ファンクショナリズムからみた考察

 

一時的にゴールを設定することは誰にでも直ちにできます。問題は、そのゴールを保持することです。ゴールに基づく認識活動が今この瞬間にできているか否かが問題となります。
ファンクショナリズムにあっては、今この瞬間の機能(関数)が全て。昨日、ゴールを設定した存在であるかどうかは、どうでもいい話となります。
昨日、ゴールを設定しただのゴールを確信しただのとしてドンチャン騒ぎをしたところで、今日この瞬間にゴールを保持してゴールに基づく認識活動を行えている保証はどこにもありません。
ここが(セルフ)コーチングが必要とされる所以です。

 

今、どんなゴールを保持し機能しているかは、目の前の世界を観察すれば分かります。
目の前に見えている世界の全てが指し示している起こり得る未来」がゴールです。
目の前の世界とは現在の脳内情報状態であり、それは無意識レベルで未来予測と整合性が保たれているからです。
はたして「今、保持しているゴール」は、「昨日、設定したゴール」と合致しているでしょうか、かい離しているでしょうか。
合致している保証はありません。かい離していると分かれば、書き換えればいいのです。これがフィードバックです。

 

ところが確定的宇宙観に閉じ込められていると、「今、保持しているゴール」を観察することでできなくなってしまいます。昨日のドンチャン騒ぎで玉突きが始まり未来が確定したと考えるので、観察する必要を認めないからです。
観察する代わりに、「ゴールを設定して未来を決めた存在である」と言葉で主張するだけに終わってしまいます。主張を続ける限りフィードバックは不可能です。かい離していた場合は、そのまま放置されることになります。ゴールに基づく機能を今の瞬間になすことは期待できません。

 


超情報場仮説からみた考察

 

時空間における時間軸座標としての未来は既にあります。ただし未来に何が起きるかは未確定であるため、可能性世界の分枝として存在します。
可能性世界は情報量の少ない(抽象度の高い)情報状態です。情報量が少ないので、各自の想像力の及ぶ範囲内で、個人的に選択可能です。
時間軸座標における今この瞬間は、情報量の多い(抽象度の低い)情報状態です。情報量が多いので、その最大公約数的な共通部分を多くの人と共有することができます。共有される脳内情報状態を物理的リアル(現実)と呼んでいます。

 

離散的な刹那宇宙の生成と消滅、つまり更新を繰り返すと、時間座標上の未来はやがて今この瞬間に変わります。更新を繰り返すことで、情報量の少ない可能性世界は共有可能なまでに情報量が増えていきます。そして物理的リアルとして目の前に結実し、一瞬で過去に流されていきます。
情報を付加する作業は自分一人で勝手にはできません。ありとあらゆる情報処理機能(生命現象)が、自分の持つ情報状態の整合性を保ととして、ダイナミックな相互作用に関わるからです。これが一念三千の縁起のダイナミズムです。
苫米地英人博士は、整合性と保とうとする相互作用の場を超情報場と名付けました。

 

結実するのはダイナミックな相互作用の結果ですから、自分が選んだ可能性世界(ゴール)が結実する保証はどこにもありません。ダイナミズムに翻弄されて、整合的にゴールを放棄することになるかもしれません。あるいは「やがて、いつか」に延期したままゴールを保持している積もりになることが、整合的な帰結かもしれません。
しかし翻弄され続けてもゴールを本当に保持し通すことができれば、結実する可能性が高まります。ダイナミズムのなかにあってゴールを保持する力をエフィカシーと言います。

 

ダイナミックな相互作用の渦中にあって、ゴールを本当に保持できているか否かは、リアルタイムの観察フィードバックによってでしか分かりません。機械的に予め確定する代物とは全く異なります。
確定的宇宙観に閉じ込められ、「ゴールを設定して未来を決めた」「エフィカシーが上がった」と言葉で主張し続けるだけなら、相互作用の場にあってゴールを結実させる可能性は、たまたまの偶然に期待するしかないでしょう。

「君の名」は、宇宙で一人の人を特定する固有名詞です。

一人の人を特定するとは、宇宙の中で「君」と「君以外」を分離する「部分関数」としての情報処理です。「君の名」とは宇宙を入力とする部分関数のことでした。

部分関数としての「君の名」は、「君について」は何も説明していません。

 

では「君について」の説明、つまり「君を定義するもの」は何でしょうか。

なぜ「君の定義」について、わざわざ目を向ける必要があるのでしょうか。

それは認識した脳内情報状態(内部表現)のみが宇宙の全てであるからです。認識作用とは無関係な、先験的(アプリオリ)な実在としての「君」は、そもそも存在しないのです。従って、脳内情報状態としての「君」つまり「君の定義」に目を向ける必要があるのです。

 

両親が誰、住所が何処、所属組織は何、趣味、好きなこと・・・

様々な要素がありますが、どれ一つとして「君自身」を直接説明するものではありません。すべてが「君以外との関係」にまつわる情報です。親は誰で、好きなものは何と、様々な「君以外との関係」にまつわる情報が集まって「君」が定義されるのです。

関係にまつわる情報があって、「君」が定義される、つまり「君」が認識され存在することになります。「君」が存在するから関係が生まれる・関係が認識される訳ではありません。

 

関係という概念で見ると、ネットワークは無限に繋がっていきます。

血縁関係を例に見てみます。過去の先祖をたどると約16万年前のミトコンドリア・イブに至るのですから、現存する人類全てとは何らかの関係があるのです。さらにアメーバや生命起源のアミノ酸を経ると、136億年前のビックバンにまで至ります。そして未来の可能性世界の血縁関係まで含めると、無限に繋がっていいきます。

無限に繋がる関係のネットワークにより定義されるのですから、「君の定義」には全宇宙が必要となるのが分かりました。

 

しかし無限のネットワークのままでは、説明として役に立ちません。人間の情報処理能力は有限であるからです。

無限に繋がる「君以外との関係」の情報ネットワークを、「君」にとって「重要な順番」に並び替える必要があります。重要な順番に並び替えるとは、「評価関数」による情報処理です。

全宇宙を入力とする評価関数により、君は定義されます。

 

重要な順番に並び替えることで、並びの基準点・原点・ゼロ番目が必然的に現れます。様々な関係の共通の並びの基準点・原点・ゼロ番目となった「点」、様々な関係の線分が交わったところの「点」、宇宙のかなでその「点」を特定する部分関数が「君の名」です。

その「点」を視点として眺めた、無限に繋がる関係のネットワークつまり全宇宙が「君の定義」となります。

 

関係のネットワークが更新されると、定義が変わるので、君は別人に生まれ変わることになります。好きな食べ物が変わると、定義上、君は別人なのです。

にもかかわらず、「君の名」が更新されないのは、「君の名」が「点」を指し示す部分関数であるからです。「君の定義」がどんなに更新されても、ネットワークの基準点・原点・ゼロ番目は必ず現れるからです。

ただし重要なことなので繰り返し強調します。

固定的な(アプリオリな)基準点・原点・ゼロ番目があるからネットワークができるのではなく、並び替える情報処理・作用・関数によって基準点・原点・ゼロ番目が現れるのです。

 

ではネットワークを、換言すると全宇宙を更新させる働きはどこから来るのでしょうか。

この場合の全宇宙とは脳内情報状態(内部表現)であることは前述の通りです。脳内情報状態以外は知り様がないからです。

全ての情報は外部由来です。自分由来の情報はありません。とすれば脳内情報状態の更新も外部由来ということになります。

 

ならば外部とは何か。

経験的な日常感覚における三次元の物理空間では決してありません。それは、網膜に映った二次元映像を脳内で三次元に合成した幻想です。

上述の通り外部を直接知ることはできません。

しかし、脳内情報状態の更新を説明できる「外部」を仮説として想定することは可能です。

その仮説とは苫米地博士の「超情報場仮説」です。「互いに情報状態を更新し合おうとする、三次元よりも高い抽象度を持った、ダイナミックな相互作用の『場』」を想定するものです。

 

情報状態の相互更新とはどういうことでしょうか。

時間座標としての未来は既にあります。しかし何が起きるかは未確定のため、可能性世界の無数の分枝としてあり、その中から選択可能です。選択した可能性世界は、多くの人の脳内情報状態として共有されれば、リアル(現実)と呼ばれるようになります。

多くの人は各々異なった可能性未来を選択しています。それらを共有されるリアルにするためには、相互更新の場が必要なのです。その場における相互作用の結果として、選択した可能性未来がリアルとして共有される人と、共有されない人が出てきます。

 

どの様な可能性未来を選択しているかは「君の定義」に含まれます。全く無関係な未来は想像できず、可能性未来もまた関係のネットワークの一部だからです。

そのネットワークは情報の集合であるため外部由来、つまり超情報場のダイナミズムに由来します。「君の定義」は、多くの人の可能性未来の選択の相互作用から生み出されるのです。

さらに「君の可能性未来の選択」もまた、超情報場のダイナミズムを通じて、他の多くの人の定義を生み出していることになります。

 

相互の選択が相互の定義・選択を生みだしていると言えます。そんなダイナミックな相互作用の「場」が超情報場です。高い抽象度からは、超情報場も一つのかたまりと見なせます。とすれば君も他の人も、同じかたまりの一つの異なる側面ということになります。側面とは、高次元のかたまりを低次元へ投射した写像のことです。

その写像の中心点が、「君の名」が指し示す「点」ということです。

 

蛇足ながら誤解のない様に付け加えます。三次元の実在を前提とした機械論的宇宙観での「同じかたまりの異なる部分」との意味ではありません。「君は宇宙の一部」とか聞こえのいい言葉があります。その趣旨は「君は宇宙の歯車の一部であり、歯車を外れてはならない」あるいはもっと酷くなると「歯車の使命を全うすれば御利益がある」とか何とかです。この手の「奴隷の論理」とは、全くの正反対で、その対極にあるのが超情報場仮説です。

不思議を実践するための説明原理

ーチングの大原則があります。故ルー・タイスが40年年間言い続けた来たことです。
All meaningful and lasting change starts first on the inside in your imagination and works its way out into reality.


(「Dr苫米地の脳力の使い方」から引用)

「すべての重要な変化は人間の心の中で生まれ外に広がる」という大前提があります。
「心の中で生まれる」というのは、「関数がまず生まれ」と言い換えられます。その関数によって実際に、物理空間に影響を与えます。まず、心の中のモデルから始めるのです。
ルー・タイスのコーチングでは、「ブリーフ・システム(Belief System)」という言葉を使います。認知科学用語で言えば、これが「内部表現」に当たります。
中略
まず、ブリーフ・システムが生まれる、もしくは変更されることによって、周囲が変わります。
(引用終了)


この大原則は(セルフ)コーチングの「説明の原理」です。説明の原理とは、(セルフ)コーチングを納得して実践するための「説明」です。
宇宙の神秘や人間の認知を解明する「理論」ではありません。
「なぜ、心の中で生まれた変化(関数)が物理空間に影響を与えるのか」「なぜ、ブリーフ・システムが変更されることで、周囲が変わるのか」については、理論的には説明していません。単に原則(プリンシプル)として受け入れ、心の中の変化(ブリーフ・システムの変更)を実践するだけの話です。


時系列的に見ると、まずルー・タイスのコーチングという不思議な現象がファクトとしてありました。
次に、ルー・タイスのコーチングの不思議を再現する試みがなされました。これがセフルコーチングプログラムです。
そして、セルフコーチングプログラムの一部として、プログラムを納得して実践するための「説明の原理」が生まれたのです。


もちろんその「説明の原理」は、時代の先端科学的知見と矛盾しない様に、慎重に検証がなされたものです。それゆえ、スピなんちゃらの説く荒唐無稽な「引き寄せの云々」とか何とかとは根本的に異なるものです。
ただし現在の先端科学といえども、人間の認知現象の不思議を解明できた訳ではありません。完全解明からは程遠いのです。
従って先端科学の知見のみから「説明の原理」を構築することはできません。科学的知見と「説明」が矛盾しないか検証することと、科学的知見から「説明」(理論)を構築することは、全く違うことなのです。


ついでに言うと、セルフコーチングプログラム作成の過程で明らかになった、認めざるを得ないファクトがあります。
「ルー・タイスの話は、ルー・タイス本人から聞いたときに、最大の価値を持つ」ということです。価値を持つとは、効果を発揮する(機能する)という意味です。ルー・タイスの話(の様な話)を、ルー・タイス以外の人間が語っても、価値が損なわれるのです。
これが認めざるを得ないファクトです。そのため現在のルー・タイスのセフルコーチングプログラムでは、DVD視聴を通じてバーチャルにでも、故ルー・タイスの話を本人から直接聞くことを、プログラムの核心部分としています。
このファクトが示唆することは、言葉で語られる「説明の原理」以外に、非言語での無意識間の情報伝達がないと、(セルフ)コーチングが成立しないということです。


コーチングという言葉が一般化するにつれ、このファクトを知らない(理解できない)人が多数登場しているようです。
「ルー・タイス氏の理論に基づくコーチング」とか何とか、訳の分からんことを言う人が出る始末です。
理論を超えたファクトがあるから不思議であり、理論から不思議を作ることは、理論的に矛盾するのです。


不思議を探求する仮説理論

では不思議の少ない、よりエレガントな説明はないのかというと、あります。苫米地博士の「超情報場仮説」です。
ただしそれは、不思議を実践するための説明原理でなく、不思議の「なぜ」を探求する理論仮説となります。


(「認知科学への招待」から引用)

私の仮説は、「この世は3次元空間ではないのではないか」というものです。
中略
最初からこの世、この宇宙は3次元よりも高い抽象度を持った「場」なのではないかということです。
そう考えると、今、私たちが「この世」「この宇宙」と認識している3次元空間(3次元場は、実は本来の「場」の低い次元の部分にすぎないのではないかと考えられます。
(引用終了)


人間は脳内情報状態(内部表現)としてしか、脳外世界を直接知ることができません。「この世は3次元空間」だと日常経験として認識していても、それが正しい保証は皆無なのです。
それゆえ「3次元よりも高い抽象度を持った本来の『場』」を想定することは、非科学的な仮説とはなりません。


この世が3次元空間であるなら、「なぜ、心の中で生まれた変化(関数)が物理空間に影響を与えるのか」「なぜ、ブリーフ・システムが変更されることで、周囲が変わるのか」は、説明困難です。3次元空間で隔たれているからです。むしろ怪しげなカルトの主張と見なされてしまいます。


しかし「3次元よりも高い抽象度を持った『場』」が「本来の『場』」であるなら、話は違います。何らかの方法で「本来の『場』」にアクセスできるなら、周囲の物理空間は変わって当たり前となります。
周囲を変えるには必ず「行動」が必要との主張も聞きます。しかし、「行動」は3次元空間での現象であり、「本来の『場』」の変化が「低い次元の部分」へ写像として現れたものの一部と考えられます。

「本来の『場』」へのアクセスは、誰もが簡単に出来るわけではありません。それなりの訓練が必要でしょう。セルフコーチングプログラム実践で用いられる手法が、アクセス訓練に該当すると考えられます。


現在のセルフコーチングプログラムが唯一の訓練方法というわけではないようです。人間には生得的なアクセス能力があるようです。アクセスの成否は、説明や理論の適否とは無関係です。
「引き寄せの云々」とか何とかを盲信しながら、あるいは支離滅裂な「コーチング理論」なるを唱えながらも、周囲に対しそれなりの影響力を発揮する人は確かにいます。「やることはそれなりだけど、言う事はメチャクチャ」という例です。
その一方、真面目に「理論」を追求しながらも、あまり影響力を持ち得ない人もます。理論だけではアクセスできないのです。