ゴサインタン

著者: 篠田 節子
タイトル: ゴサインタン―神の座
篠田節子の作品の中には神、宗教、ヒマラヤの国と山を扱った3部作がある。「聖域」「ゴサインタン」「弥勒」である。
私は新しいものから古いものへと逆行する形で読んでいるのだが、「弥勒」を読んでいたからこそ、「ゴサインタン」を不思議な気持ちで読み、解説を読んで納得したのだった。
東京近郊に住む主人公は、代々続く町の豪農で名主の跡取り息子で、嫁のきてもなく、金でネパールの貧しい女を嫁にもらったようなものだが、その嫁が神がかりとなり、両親の死、全財産の消失と主人公の家を崩壊へと導く。
そして失踪した妻を捜しにネパールの神の山”ゴサインタン”へと向かう。
宗教として組織していく時、教祖にはそれなりの体裁を求めるものというところに、人間の欲や信仰心の本質みたいなものを感じる。
信ずるのは神ではなく、神の御業をもたらす人を仰ぐようになると、本来の宗教の目的や本質は捻じ曲がっていくことを暗に示している。
それが人を寄せ付けぬ神の山はただそこに存在し、そこに暮らす人々は何も持たない。彼らが豊かさを得るには人間の尊厳や命を捨てるしかない。
そのような国に生まれ、育った嫁の本当に望むものとは?そして、怒り、絶望しながら、なおも離れることのできない主人公のいきつく心理とは何か。
すべて失ったところから再生は始まるという、宗教の本質にも迫る力作は読み応えあり。
それと、確か篠田節子は小説家になる前は役所に勤めていたと何かで読んだのだが(間違っていたらごめんなさい)、主人公が役所の農林課と折衝したりする部分があるのだが、きっと自分の経験から書けてしまうんだろうなと勝手に思ったりして。
題名が示す山「ゴサインタン」の隠れた存在に気づくと、きっとこの作品の本質が見えてくる。
「ゴサインタン」を探せ。
娼年

著者: 石田 衣良
タイトル: 娼年
集英社の「ナツイチ」の中の一冊にあって、石田衣良といえばIWGPなのだが、こんな話も書いていた。
大学生の主人公はバイト先のバーで会員制のボーイズクラブのオーナーに誘われて、「娼夫」の仕事を始める。いろんな客を通して女の欲望を知り、それに応えていく彼は、女を蔑むわけでも、ましてや自分のしていることを特別恥ずかしいとも思わない。むしろ女という生き物に魅了されていく。
特別な難しさもしかけもないけれど、夏のほんのひと時に読むにはこういうものの方が向いていると思うような、石田衣良の別な部分を垣間見たような作品だと思う。
女にだって性欲はある。
それを二十歳そこそこの青年が馬鹿にするような内容だったら、ふざけんな!と思うところだが、きっとこんな優しい若者はいまどきいないだろうと思うのだが、主人公がこの仕事をお金のためではなく、自分の適職というように捉えているあたりが好感が持てる。
性描写もしっかりあるが、感じる内容なのだがいやらしさがないというか。石田さんの女性の扱いはもしかしてこんな風なのかな?と思うほど、洗練さを感じる。
私はホストクラブのような女性を金にしかみないような男たちと遊びたいと思ったことは無いが、もしもこんな素敵な「娼年」がいるなら、一度くらいは試したいと思ってしまった。
なんだか夏の木陰での午睡の夢のあとみたいな一冊。
13階段
著者: 高野 和明
タイトル: 13階段
この本はすでに映画化されて、主人公の前科者の三上役は反町隆である。
おまけに、この本は第47回江戸川乱歩賞受賞作なのである。
帯には「宮部みゆき氏絶賛!!!」とある。
読んでみれば、なるほどそうかもしれないと思う。
宮部みゆきのどんでん返しの妙味に似ているからだ。
読み進むうちに引き込まれ、どんどんとその世界に入り込める1冊であることは間違いない。
これを読んで映画も見たくなってしまったほど。
犯行時刻の記憶を失った死刑囚の冤罪をはらすべく、刑務官と前科を負う青年・三上を指名して奔走する。
手掛かりは「階段」の記憶しかない。せまる死刑執行に焦りながら、三上の以前に犯した罪と錯綜しながら、何かが見えてくる。
結末は読めばわかる。
久々に、読む速度が早まった1冊。
フランチェスコの暗号 上・下
著者:イアン・コールドウェル & ダスティン・トマスマン
帯はこう述べている。
「フィツジェラルドとウンベルト・エーコとダン・ブラウンの共著はこうなる」と。
確かにそう思わせるだけの2名の大学生(当時)が6年の歳月をかけて書いたものであるからこそなのだが、昨今のルネッサンス・暗号ブームに乗っかって、これも早くも映画化が決定されたようである。
内容は、トムとポールがローマ時代の古書「ヒュプネロトマキア・ポリフィリ」の秘密を解き明かしていくものだが、彼らの父親や後見人も若かりし頃に同じ大学でこの古書の魅力に取りつかれ、未だ解明できずにいる謎をついに、ポールが見つけていく中に、プリンストン大学という中の学生時代にありがちな青春の友情と恋愛も盛られていて、登場する友人たちも魅力的な者が多く、映像にも結びやすい。
しかし、私の感想はイマイチなのである。
二人の共著ということで、どうしても文章の流れが変るのが解ってしまうのだ。
これが実は狙いなのかどうか解らないが、妙に比喩的表現が増えて意味を掴みにくいまわりくどさみたいなものを感じる部分と、的確に流れが動き出した部分とを感じてしまう。
また、大きな事件があったばかりなのに、急にそれを追及せず、別な場面へと飛んでしまうような、これは結果どうなったの?と置き去りにされそうになる。
結末も、何だかすっきり観が薄い。
もしも、二人のうちどちらかがこの1冊を書き上げたとして、比喩を多用しない方なら間違いなく、次の作品も買い続けていくことになるだろう。
この二人の共著は面白味はあるものの、私はこの二人によるものならば、次は買わないような気がする。
帯はこう述べている。
「フィツジェラルドとウンベルト・エーコとダン・ブラウンの共著はこうなる」と。
確かにそう思わせるだけの2名の大学生(当時)が6年の歳月をかけて書いたものであるからこそなのだが、昨今のルネッサンス・暗号ブームに乗っかって、これも早くも映画化が決定されたようである。
内容は、トムとポールがローマ時代の古書「ヒュプネロトマキア・ポリフィリ」の秘密を解き明かしていくものだが、彼らの父親や後見人も若かりし頃に同じ大学でこの古書の魅力に取りつかれ、未だ解明できずにいる謎をついに、ポールが見つけていく中に、プリンストン大学という中の学生時代にありがちな青春の友情と恋愛も盛られていて、登場する友人たちも魅力的な者が多く、映像にも結びやすい。
しかし、私の感想はイマイチなのである。
二人の共著ということで、どうしても文章の流れが変るのが解ってしまうのだ。
これが実は狙いなのかどうか解らないが、妙に比喩的表現が増えて意味を掴みにくいまわりくどさみたいなものを感じる部分と、的確に流れが動き出した部分とを感じてしまう。
また、大きな事件があったばかりなのに、急にそれを追及せず、別な場面へと飛んでしまうような、これは結果どうなったの?と置き去りにされそうになる。
結末も、何だかすっきり観が薄い。
もしも、二人のうちどちらかがこの1冊を書き上げたとして、比喩を多用しない方なら間違いなく、次の作品も買い続けていくことになるだろう。
この二人の共著は面白味はあるものの、私はこの二人によるものならば、次は買わないような気がする。
羊の宇宙

著者: 夢枕 獏, たむら しげる
タイトル: 羊の宇宙
(2003/06/06読済)
夢枕獏は独自の宇宙観を持っていると私は思う。
それをシチュウのCMでおなじみの「たむらしげる」が絵本にした。これも一応絵本のジャンルなのかと感心する。
宇宙はとてもシンプルな捉え方ができるのだと、これを読むと思う。
もしも本当にアインシュタインが今でも生きていたなら、その答えが出るのかもしれないとさえ思う。
宇宙の概念はミクロからマクロと広がりをもって捉えることは自由である。全ての生活の中に宇宙は存在し、それに気付かなくとも生きていける。でも、それを敢えて捉えなおした時に長い時間と空間の中に存在する、ただ1人の自分に気付く。
羊飼いの少年が解く宇宙が、宇宙を解き明かした科学者に、再び宇宙というすべての存在に挑むことをさせる。それは特別なことでなく、大儀なことでもなく。
「宇宙」についてふと思い巡らす、夜に読みたい絵本である。
欲望
著者: 小池 真理子 (2003/08/31読済)
この夏の新潮の100冊の中の1つで、何気なく裏表紙の紹介文を読み、
何となく気分的にどろどろとした愛欲ものを読みたいと思い、購入。
この本の凄いところは、この物語を読むと同時に何だか三島由紀夫の豊饒の海4部作をも同時に読み出すような気になるところだ。
私は三島もかなり好きである。豊饒の海の4部は既読していたので、つい家の本棚をごそごそと探って、もう一度読んでみようかという気にもなった。
事故により性的不能者になった青年・正巳は何となく三島の小説の中に出てきたことのあるようなイメージだし、主人公の類子が坦々と過去を遡って語られるこの文章も、すんなりと頭に入っていくために、500弱のページもあっという間に読んでしまえる。
性的には満たされる事のない男女の切なくて、それでいて官能的で、情熱的な、ラストはまさしく三島の豊饒の海を現実化させたような終わりに、読んだ後もじーん胸に迫るものがあった。
小池真理子の本は前にも何冊か読んだことがあるが、そのどれもは「いい女になるための~」のようなハウツーエッセイのようなものだった。
だから名前だけはよく知っていたが、これだけ円熟した恋愛小説を書いていたのかと驚かされた。
直木賞をとった「恋」を私は読んでいない。それから2年後にこれは発表された。
私は世評高い「恋」を読んでいなくて良かったと思った。あとがきにあるように性描写の省略されたようなそれに対し、この作品はしっかりと描かれる。
しかし、それはあくまでも精神を通して性描写であって、いやらしさの微塵もないことは言うまでもない。
これを読むべきはしっかりと若かりし頃の熱情による性体験もあって、歳をとり黄昏へと向かおうとする大人こそが読むべきである。
おそらく、そうでなければこの主人公達の想いは理解できないのではなかろうか。ケツの青い小僧や小娘にわかってたまるか。
久々に心に残った1冊であった。
この夏の新潮の100冊の中の1つで、何気なく裏表紙の紹介文を読み、
何となく気分的にどろどろとした愛欲ものを読みたいと思い、購入。
この本の凄いところは、この物語を読むと同時に何だか三島由紀夫の豊饒の海4部作をも同時に読み出すような気になるところだ。
私は三島もかなり好きである。豊饒の海の4部は既読していたので、つい家の本棚をごそごそと探って、もう一度読んでみようかという気にもなった。
事故により性的不能者になった青年・正巳は何となく三島の小説の中に出てきたことのあるようなイメージだし、主人公の類子が坦々と過去を遡って語られるこの文章も、すんなりと頭に入っていくために、500弱のページもあっという間に読んでしまえる。
性的には満たされる事のない男女の切なくて、それでいて官能的で、情熱的な、ラストはまさしく三島の豊饒の海を現実化させたような終わりに、読んだ後もじーん胸に迫るものがあった。
小池真理子の本は前にも何冊か読んだことがあるが、そのどれもは「いい女になるための~」のようなハウツーエッセイのようなものだった。
だから名前だけはよく知っていたが、これだけ円熟した恋愛小説を書いていたのかと驚かされた。
直木賞をとった「恋」を私は読んでいない。それから2年後にこれは発表された。
私は世評高い「恋」を読んでいなくて良かったと思った。あとがきにあるように性描写の省略されたようなそれに対し、この作品はしっかりと描かれる。
しかし、それはあくまでも精神を通して性描写であって、いやらしさの微塵もないことは言うまでもない。
これを読むべきはしっかりと若かりし頃の熱情による性体験もあって、歳をとり黄昏へと向かおうとする大人こそが読むべきである。
おそらく、そうでなければこの主人公達の想いは理解できないのではなかろうか。ケツの青い小僧や小娘にわかってたまるか。
久々に心に残った1冊であった。
それでもワタシは旅に出る!
著者: 末光 美智子 (2003/05/20読済)
すえさんとの出会いはインターネットのHPからだ。
彼女のサイトを訪ねるようになって、最近この本が出されたことを知った。
これがもし本屋で出会ったらもっと感動したに違いない。
彼女の旅は逃避型ではない。むしろ自分という者を推し量るべき旅であると私は思う。
看護士という仕事を通して人の生死を見続けている彼女をして、旅を通じて人との出会い、土地、文化との出会いは間違いなく自らを奮い立たせている。
生きていること、生きていくことが日常では曖昧になりがちな昨今。
彼女の旅はまさしく、彼女の生き様を確認する手段に違いない。
「悩めよ 旅に出ろよ 迷わずに」がモットーだという。
この言葉はいつか私が彼女のHPの掲示板で書き込んだ言葉の一部だと思う。
もしそうだとすれば、彼女の気持ちにシンクロできたようで、とても嬉しい。
写真がカラーだったらもっと良かっただろう。だって、彼女の写真は色がとてもすばらしいから。詳しくは彼女のHPを見れば納得するだろう。
すえさんとの出会いはインターネットのHPからだ。
彼女のサイトを訪ねるようになって、最近この本が出されたことを知った。
これがもし本屋で出会ったらもっと感動したに違いない。
彼女の旅は逃避型ではない。むしろ自分という者を推し量るべき旅であると私は思う。
看護士という仕事を通して人の生死を見続けている彼女をして、旅を通じて人との出会い、土地、文化との出会いは間違いなく自らを奮い立たせている。
生きていること、生きていくことが日常では曖昧になりがちな昨今。
彼女の旅はまさしく、彼女の生き様を確認する手段に違いない。
「悩めよ 旅に出ろよ 迷わずに」がモットーだという。
この言葉はいつか私が彼女のHPの掲示板で書き込んだ言葉の一部だと思う。
もしそうだとすれば、彼女の気持ちにシンクロできたようで、とても嬉しい。
写真がカラーだったらもっと良かっただろう。だって、彼女の写真は色がとてもすばらしいから。詳しくは彼女のHPを見れば納得するだろう。
縦走路
著者: 新田 次郎 (2003/09/01 読済)
ハイ、はまってます。この山岳小説に。新田次郎に。
狂ったように集めているこの新田次郎の著作の中の1冊。
これは二人の山男と美人の女流登山家をめぐる恋愛小説であり、山のぼりを楽しむための小説でもある。
「女流登山家に美人なし」という通年を覆す美貌のアルピニストが選ぶ男たちはどちらなのか、冬山を経験したことのなかった彼女がそれを経験したことで岩登りへとのめっていく。
そして彼女をライバル視する高校時代の友人がはりめぐらす恋愛の罠。
それらと山行とがうまくマッチしながら、30年前に書かれたこの話が未だに色を失っていないことに驚きと感動を受ける1冊。
山を描かせたら日本一。それを実感できること請け合い。
ハイ、はまってます。この山岳小説に。新田次郎に。
狂ったように集めているこの新田次郎の著作の中の1冊。
これは二人の山男と美人の女流登山家をめぐる恋愛小説であり、山のぼりを楽しむための小説でもある。
「女流登山家に美人なし」という通年を覆す美貌のアルピニストが選ぶ男たちはどちらなのか、冬山を経験したことのなかった彼女がそれを経験したことで岩登りへとのめっていく。
そして彼女をライバル視する高校時代の友人がはりめぐらす恋愛の罠。
それらと山行とがうまくマッチしながら、30年前に書かれたこの話が未だに色を失っていないことに驚きと感動を受ける1冊。
山を描かせたら日本一。それを実感できること請け合い。
やっぱり京都人だけが知っている
著者: 入江 敦彦 (2003/09/01読済)
「京都人だけが知っている」の続編である。
今回もようゆうたの内容が盛りだくさんである。
私が日頃京都に住み、何故に?と思うようなことがぎっしり書かれている。
昨今の大人の京都ブームに対する考察から、ラーメン、書店、骨董など別な角度からの京都へのアプローチをするためには必須の書ではないかと私は思う。
普段のあるがままの京都がここには書かれている。それを悪いとか、素晴らしいとかそういった批評の類ではなく、受けを狙うこともなく、ただ淡々と京都出身の著者があえてよそもんになった状態で見る京都である。
京都に住むよそもんのための書とでも言うべきか。私はこれを読んで、きっとここの中に登場する店や場所を回るだろう。
それは京都に足しげく通う京都好きなよそさんも同様に。
ひやかしついでに読んでや。そんな1冊。
「京都人だけが知っている」の続編である。
今回もようゆうたの内容が盛りだくさんである。
私が日頃京都に住み、何故に?と思うようなことがぎっしり書かれている。
昨今の大人の京都ブームに対する考察から、ラーメン、書店、骨董など別な角度からの京都へのアプローチをするためには必須の書ではないかと私は思う。
普段のあるがままの京都がここには書かれている。それを悪いとか、素晴らしいとかそういった批評の類ではなく、受けを狙うこともなく、ただ淡々と京都出身の著者があえてよそもんになった状態で見る京都である。
京都に住むよそもんのための書とでも言うべきか。私はこれを読んで、きっとここの中に登場する店や場所を回るだろう。
それは京都に足しげく通う京都好きなよそさんも同様に。
ひやかしついでに読んでや。そんな1冊。
孤高の人 上・下
著者: 新田 次郎 (2003/09/01 読済)
山岳小説の第一人者新田次郎の本である。
登場人物は実在の兵庫県は浜坂出身の加藤文太郎である。
大正から昭和初期にかけての彼の山行はたった一人で戦うものであり、また社会人クライマーの地位を確立した人でもあった。
山には詳しい新田次郎の手にかかるとこうまでも惹きつける人物像を描き出すものかと心底感心するのである。
新田次郎は私の通った高校の上に位置する山手に住んでいたこともあって、親近感が湧くのだが、実は今の今まで読んだことはなかった。
しかし、夢枕獏が「神々の山嶺」を書き、それに触れてから山岳小説なるものはもちろん、山にかなり目が行くようになった。
神々を読んでからこの本を読んだのは恥ずかしい事ではあるが、それぞれの主人公は良く似ていると感じた。
私はこういう男たちが好きである。孤独を愛し、信念にのみ素直に率直に生きようとするこの変わり者と呼ばれる彼らが好きだ。
「なぜ山に登るのか」という問いは山をやるものなら必ず持つものであろう。
その答えがこの本にはある。
これを読めば無償に山に行きたくなる。
この女である私をしても彼らが見たであろう景色を見てみたいと思わずにはいられない。
中高年に馬鹿に人気の出ている昨今の山登り、これはそんな甘っちょろいものと較べてはならない。
これを読んだ中高年が出かけるというなら、ツアーなどで行く奴は一人もいないだろう。
物見遊山ではない、真の山がそこにある。読むべし!!!
山岳小説の第一人者新田次郎の本である。
登場人物は実在の兵庫県は浜坂出身の加藤文太郎である。
大正から昭和初期にかけての彼の山行はたった一人で戦うものであり、また社会人クライマーの地位を確立した人でもあった。
山には詳しい新田次郎の手にかかるとこうまでも惹きつける人物像を描き出すものかと心底感心するのである。
新田次郎は私の通った高校の上に位置する山手に住んでいたこともあって、親近感が湧くのだが、実は今の今まで読んだことはなかった。
しかし、夢枕獏が「神々の山嶺」を書き、それに触れてから山岳小説なるものはもちろん、山にかなり目が行くようになった。
神々を読んでからこの本を読んだのは恥ずかしい事ではあるが、それぞれの主人公は良く似ていると感じた。
私はこういう男たちが好きである。孤独を愛し、信念にのみ素直に率直に生きようとするこの変わり者と呼ばれる彼らが好きだ。
「なぜ山に登るのか」という問いは山をやるものなら必ず持つものであろう。
その答えがこの本にはある。
これを読めば無償に山に行きたくなる。
この女である私をしても彼らが見たであろう景色を見てみたいと思わずにはいられない。
中高年に馬鹿に人気の出ている昨今の山登り、これはそんな甘っちょろいものと較べてはならない。
これを読んだ中高年が出かけるというなら、ツアーなどで行く奴は一人もいないだろう。
物見遊山ではない、真の山がそこにある。読むべし!!!