表参道にて
 
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近代建築の理論

近代建築の理論を端的にわかりやすく言うと、2つの対立する概念がある。

①ミースの「均質空間」という空間概念とその具体化
→集落や地域性の否定 つまり自然と離れたところで地域とか場所とか歴史とかとは無関係に全ての人に供する
普遍的な建築ができるという考え方。

②コルビュジェの「合目的的な機械のような建築を造らなくてはならない」という考え方。
→コミュニティという社会的な枠組みの中で全人的な社会を志向しながら、「輝ける都市」をつくり、
しかもそれらはインターナショナルに価値を認められることができるであろう。という考え方。

集落にどう対応するのかというのが、近代の一番の問題だと考えていた。

原広司 「携帯電話のような都市は可能か?」

petra

□この建築を人は実際にどう体験するのか?
それをシークエンスとして捉え、あらゆる視線の流れと身体の動きを想像する。
・屋内から外を見たとき何が見える?
・中を見るときどんな経験をする?
・特別に何も見えないとき、人にその空間と関わらせる何かを創ることができる?
・その空間の状況、その空間の持つ可能性はどうか?

・半ば屋内、半ば屋外のような、天候に左右されるような空間は創れないのか?
その時、そうした空間の機能が建物内のその他の空間や、人々にどのような関係を持つのか?

・建築は建築自体で成り立つのではなく、まわりの環境がそこからどのように体験されるのか>?
建物の内外を動き回りながら、「ワーッ」と言わせる視覚体験があるかどうか?

rem

□与えられた環境でそこそこ名人芸な建物をつくるようなことはしない。

□建築には何かポジティブなことが達成できるという信じられないほどの過大評価があるが、ポジティブなことよりネガティブな方向を挑発することまたは、挑発可能なことの方が、より多く存在するという事実を知ること。

□建物の形を機能的な要素から隔てる。都市というのは我々が考えるよりもずっと簡単に機能が建物のフォルムに
適応してゆくことを示している。

□仕事を展開してゆく上での限度を認識するということ

□イコノグラフィーに重要性を与えること
□自由な断面
□過密生

□建築のフォルムが美的観点から判断されることを退ける

□多機能であろうとする価値を知らないこと

□平面を視覚的に活気づける必要に気づくこと→建築はアクションである

□シークエンスと感動が無限に続くような感覚を与えるように配慮すること
→建築全体が、もっとも狭い場所からもっとも広い場所にもっともパブリックなスペースからプライベートなスペースへと導くようにデザインすること
→アクセスは2方向から(行き止まりをつくらない)
→解釈する課程で自分のものとすること

□現代メトロポリスのスケールやそれを特徴づけるインフラの強いインパクトも心の底から受け入れ
断定的で絶対的なフォルムの建築を提案する。

ふーん

恋は盲目というが、結婚は再び視界を取り戻してくれる。
お二人とも、いつまでも恋人でありながら、ベストフレンドとして
幸せな家庭を築いてください。

It is not a luck of love,but a luck of frendship that makes unhappy marriges

ふーん

歴史ということについて

歴史ということ

ある街が、数百年という時間を重ねながら今という時代にあるということ。
そして、そのような街は今後どのように生きてゆけばよいのだろう。

歴史的な町並みは確かに美しい。
しかし、保存、修復、復元という行為の先に何があるのか?
補助金????

現在あるその町並みは、数百年の間時間が止まっていたわけではない。
長い時間の経過の途中でスクラップアンドビルドを重ね、その時々の
材料や最適な工法によって、蘇り今に至っているはず。

であるとするならば、新しく建つこの建物も同様に、
現在の材料、工法によって成立するべきではないのか?

もちろん、調和という概念は必要であろう。
しかし単にコピーやイミテイションをつくることだけが
歴史的な町並みに期待されることではないだろう。

失われつつある人と人の温かさ
変わらぬ山々の景色

そういったものを含めて、未来に対して
新たな決断をするべきではないのか?

都市のイメージ01 

自分の家が、住み慣れているということだけでなくきわだった特色をもつものであるほど家庭の甘い味がするものである。
事実特色があってしかもわかりやすい環境は、安定感をもたらすのみならず、人間の体験が達しうる深さと密度を高めもする。現代の都市の視覚的な混乱の中にあっても、もっと生き生きとした背景においては、日々の同じ行為が新しい意味を持つこともできるだろう。

格言 その1

人を変える9原則(デール・カーネギー)
①先ずほめる
②遠回しに注意を与える
③先ず自分の誤りうぃ話した後、相手に注意を与える
④命令をせず意見を求める
⑤顔を立てる
⑥わずかなこと、全て惜しむなく心からほめる
⑦期待をかける
⑧激励して、能力に自信を持たせる
⑨喜んで協力させる

approriation 

appropriation 「アプロプリエイション」(盗用、割り当て、横領)
すでに作品化sれているものからイメージを借用して作品を作ったり、あるいは他人の作品を自分の作品として再写真化したり、描き直したりする行為。この行為は消費社会に溢れる「幸福」のイメージを別の文脈に置くことでその意味を変化させたり、 あるいは人間の身体や階級や美についての既成の価値観を媒体としている表彰の洗脳的な機能を暴き出したりするための批判的な方法。
←ポストモダンの表現

新しいリアルー多木浩二

一見すると、この時代は人間が歯止めのない欲望にうつつを抜かし、いかなる倫理的束縛からも自由になっているように見えるが、その実、感性も知性もほとんど無意識化した慣習から免れているとは言い難い。感性に限定した例を挙げれば、われわれは感覚の中で圧倒的に視覚を優先させている。だが、われわれが世界に存在しているとは、触覚をはじめとする五感で世界に触れ、また触れられていることなのである。

人間には、これまで建築や都市を感じてきた感性と知性を備えた身体とは違った身体があるだろうと伊東は問いかけているのである。情報を介したテクノロジー、建築が浸透する自然、触ることのできる物質、さらに身体。。。。といったキーワードが浮かんでくる。

現代の世界の変化は、我々の文化に恐るべき衝撃を与えているのだ。優れた建築は、この文化の変動の意味を考える以前に何らかの形でそれを具象的に表象し、われわれはそこから理念的認識を得ているからであり、われわれはそこからわれわれの生きている現代のテクノロジー社会についての思考を促されるからである。そんな役割を果たさない建築は、どれほど洗練されたミニマリズムの美的意識もっていても、どうでもいい対象なのだ。

建築とは概念的な意味に形を与えたものではないのだ。建築そのものが意味なのであり、必ずしも主体ばかりではない他者の想像力を含めて発生し、つくり出される建築固有の組織が意味であった。意味を見いだすとは、この仕組みを探すこと、それが伊東の場合には、いかに近代建築を離れた場所に建築が発生するかを探ることであった。

私にとって世界は何よりも無数の力線の集まりであり、特権的主体によって認識されるものではなく、反対に主体そのものが認識されるものである。生命や身体も、こうした力線の交差の中で生み出される。セシル・バルモンドが、そのような線はエネルギーの軌跡であるというのは、世界について考察していることを示している。建築とはこのような多形的な世界から、それぞれの建築のプログラムを介して浮上してくるものである。こうした建築家の存在とは何だろうか。自己をも他者をも巻き込んで生成する世界とゲームをする自由な想像力なのである。