身体欲求の私ではなく、心欲求の私で動く -当たり前を覗いてみる95-

 

 

私たちは、二つの生きる出発点を持っています。

それが、身体という出発点と心という出発点です。

 

 

身体とは物質であり、その美しい世界は細胞です。相互に連携し合い、必要な役割に応じる臓器をつくりだし、複雑な身体全体のシステムをそれ以上の世界のために稼働させています。

 

一方、心とは認識であり、その美しい世界は実感です。目の前の事象一つに対して、観点が変われば全く別の景色として実感でき、心の動きは身体へも大きな影響を与えます。

 

 

身体欲求とは、生命を維持し繁栄させるための欲求で、私という存在が失われる恐怖を常に回避しようとします。

心欲求とは、世界を現したいという欲求で、自分の自由意志による意志決定が失われることに絶望を感じ、なんとか自由を確保しようとします。

 

 

 

この二つの出発点で常に優位になるのが、身体の方です。

それは人間が長らく、生命を維持し繁栄させる歴史が長かったからこそであり、社会のシステムが生命を支える消費活動に画一化されているからです。

しかし、文明が成熟すればするほど、心の欲求が芽を出してきます。

それは「生きるために何をすべきか」ではなく、「何によって生きるべきか」「どんな私が生きていくのか」という、哲学的思考が刺激されるからでしょう。

 

 

どんな世界を私自身が現そうとするのかの問いを実行することで、心の欲求は育っていきます。

身体の欲求をいくら満たしても、私は何者で何をしたいのか、心理的安全性や分かり会える関係性が作れないことは、もう誰もが分かっています。

それが文化の成熟であり、心欲求が芽吹いている証でもあります。

では、どうすれば身体欲求を心欲求へと移行させていけるのでしょうか。

 

 

まだ、社会システムが身体欲求ベースで動いているために、溢れている情報は、衣食住や経済、高さの幸せ成功です。

その情報にさらされていると、身体欲求優位の認識スタイルになってしまいます。

社会的高価値の環境を整えることが、自分の幸せであると思ってしまうことが当たり前になり、私にとって幸せとは何かをすっかりと忘れてしまうんですね。

 

 

まず、取り組むべきは、出発を明確に分けることです。

身体欲求は、生命を維持し繁栄させようとします。生きるため、生活のために必要なこと世界であり、幸せや成功もその延長線上にある世界です。

心欲求は、心から現すべきだと世界を実現させようとします。私にとって〇〇とは何かという意思決定に基づく永続性のある世界であり、心の熱情の延長線上にあ幸せを感じる世界です。

 

身体欲求は、私という個人と他者や現実との関係の中でライフスタイルが構築されます。

心欲求は、私とは何者なのかというアイデンティティと、人類や時代との関係の中で認識スタイルが構築されます。

身体欲求から始まる世界の中に、心欲求が満たされることはありません。

 

 

 

世界が全く違う境界線を自分の中に構築できたのなら、あとは、深く思惟することを始めていきましょう。

何かに触れることで感じる世界が身体感覚なら、私にとって心から出会うとは何だろうかと思惟することが心感覚です。

人と出会うことがうれしいと感じることが身体感覚なら、私は人の何と出会うべきなのかと思惟することが心感覚です。

 

身体感覚が求める必要なことに対して、それは私にとって何であり、その最も美しく、最も真である一点を観察することが心感覚です。

その一点が変われば、世界の景色が一変します。

実は、私たちはそれほどダイナミックで壮大な世界にいます。今ここ常に。

 

 

 

あなたの心に熱い鼓動が動いていますか?

 

 

 

 

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