期待の責任は自分で負う -当たり前を覗いてみる83-
人間関係が難しくなるきっかけの中に期待があります。
一方的な期待にせよ、共有された期待にせよ、期待とは、実はやってくれるはずという不確定要素を無視した勝手な決めつけでしかありません。
ただ、期待が全くなくなってしまう関係は、虚無のような情の循環が起きない、信頼が深まらなくない関係ともいえます。
期待の何が問題なのでしょうか。
期待をすることで、相手にプレッシャーを与えてしまうという要素もありますが、一番の問題は、期待をした本人が「期待を裏切られた」「失望した」という気持ちになってしまうことです。
先ほども少しふれたように、期待は一方的な決めつけです。
だからこそ相手にプレッシャーを与えてしまうことにもなるのですが、それはお互いの信頼がどれほど深いのかによって変わる要素です。
その信頼関係に影響を与えるのが、期待をする側が、自分の解析に責任を持てるかどうかでしょう。
自分か勝手な解析で期待をしたのであれば、その責任は自分自身にあるはずです。
しかし、その残念な気持ちを相手に押し付け、「私の期待を裏切ったあなたが問題だ」と言ってしまうのは、そもそも信頼があるとは言えません。
日本の教育では、自分が何を認識しているのか観察する学びを提供していません。
自分が認識して解析した現した世界なのにもかからわず、それを相手に押し付け、相手の問題と決めつけてしまうことが、本当に多い現状です。
また、それと同じように、期待される側も「私の責任で期待を裏切ってしまった」と勝手に傷ついてしまうのも間違っているといえます。
自分が認識している世界と相手が認識している世界は全く違うのです。
自分の心の平和は自分で守るもの。
期待する信頼の気持ちは大切にしながら、でも期待した責任は自分がしっかり負うこと。
その在り方がより普遍的な深い信頼関係をも作り出すのではないでしょうか。
あなたが期待していることは何ですか?
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