自分を始めて見えた世界

 

 

疎通の課題を2010年に自分の問題意識やアイデンティティとして取り組もうと決めて、もう気が付けば8年。

今でさえ、コンテンツとして当たり前のように提供し、語ることが出来ていますが、それが出来るようになったのも、2015年の年末からでした。

 

2010年当初は、とある強い危機感、切迫感に冷や汗を感じ、このままではヤバイと、アイデンティティを決めたはいいものの、そのアイデンティティに基づいた自分の考え感情を創るのことに、悪戦苦闘する日々でした。

 

今思えば、あの悪戦苦闘が認識技術としての技術力の基礎になっているようにも思います。

2010年が今の自分の始まりでもあります。

 

 

講座でお会いする方にはよくお話しすることですが、僕が「疎通の課題」を取り組むべき問題としたのは、僕自身が「疎通」に多くの涙を注いできたからに他なりません。

 

他人とのコミュニケーションや人間関係はもちろん。

自分が思っていることを言葉として表現するのでさえ、とても難しいことでした。

 

友人と口論になって(特に女性とですが)口ではかなわないんですね。

なぜって、言いたいことが言葉化できなくなってしまうので。

2,3日経ってやっと言葉に変換することができて伝えても、「なんであの時に言ってくれなかったのよ」と言われて、返す言葉がなくなってしまう。

とほほ、、ですね。

 

高校生までイジメにあっていたり、何か本気でやろうとすると常に人間関係が障害になっている人生でした。

それもあってか、自分で出来ることは全部自分でやっていたんですね。

「気持ちを言葉にして現す」という経験が蓄積されなかったんだなと、思います。

 

信頼されていることが分かっていても、そこから逃げてしまうようなこともよくやっていました。

不器用なんです。

 

 

 

1人の人間において、

人生を通して疎通という同じ色の涙が流れてしまうということは、この時代にその涙を解決することのできる技術が確立されていないからだと、思っています。

さらに、これまでの時代の中でも、一度も明確に解決することが出来ていないから、だから、この涙が流れてしまうんだと。

 

だとしたら、人間はこの疎通の課題を解決することは出来ないのでしょうか。

人間の心が持つ創造力は、この課題を超える力を持っていないのでしょうか。

 

 

いいえ、これは解決できます。

 

 

疎通が出来ないのは、個人の問題ではありません。

これは、脳が世界を認識するときに常に作動している認識構造の問題です。

認識構造は人間共通の仕組みです。

つまり、個人の問題ではなく、仕組みの問題であり、人間共通の問題でもあります。

 

認識構造によって、自分の考えによって自分の可能性を喪失させてしまうんですね。尊厳の喪失はその典型です。

他人との疎通、自分との疎通は、実は、自分の「考え」や脳の「認識構造」との疎通をクリアなくしては、解決できません。

現在、これは技術として誰もが突破できる世界です。

 

 

これが言えるようになれたのは、2010年の始まりがあったから。

その始まりが創れるようになれたのは、2003年にNohJesuとの出会いがあったからです。

NohJesuは認識技術・観術(n-Tech)の創始者であり、僕のトレーナーでもあります。

NohJesuの認識技術・観術(n-Tech)を受け継いで、疎通の課題を解決する時代を目指して、今では全くの素人が自分のプロジェクトをもって生きれるところまでの案内出来るようになりました。

 

 

自分を始めて見えた世界は、どんな涙も喜びの涙に変えることが出来るということ。必ず変化できるということです。

 

まだまだ、やることはたくさんありますが、より多くの情報知識をオープンできる次の段階を始めていきたいと思っています。

 

 

Youtubeでも、情報をアップしていますよ。