おはようございます。

昨日旅行から帰りました。

無事帰ることができてほっとしました。


わたしひとりを「わたし」だと認識していますが、

旅行中は4人を一つの団体=わたしとして

認識している時がありました。


このことからも分離の境界線は

自分で決めていることがわかります。

ならば当然わたし対外側を1対9にすることも

全てをわたしとすることもできるわけで。


甲子園をみる時は愛知県代表を

わたし側として認識するし、

オリンピックは日本とそのほかの国という

分け方をするように、

立っている場所、観点の場所により、

分類していることがわかります。


だからスピリットの位置に立てば

全部わたし、というか、大いなる意識ですよね。


この観点が常駐しないでブレるのは、

旅行前の「わたし」が、わたしの想いを

掴んで離さなかったように、自我のわたしを

掴んでいるからですかね。


手離してみれば、なんてことない、

その「想い」を手離しても問題はないし、

わたしの範囲が大きくなるだけの話のような?


全てわたし と観るか

わたしなどない と観るか。

どっちでもいいけど、

自我をわたしと呼ぶなら、わたしなどない、

になるのかな。

そんなことを思う朝でした。


今日もおつきあいいただきありがとうございます。

読んでくださってありがとうございました。