おはようございます。

先日の振り返りです。


仕事で、発注依頼の内容を確認していて、

違和感を感じました。

見積もり内容をしっかり確認せず、

発注した可能性があると考え、手配を保留にし、

担当(夏季休暇中)が出社したら確認しようと

決めます。

間違って発注することを避けるため、

社員に内容を話し、情報を共有しました。


が、社員は担当営業の出社を待たず、

その時にお客さまに内容を確認するよう

指示しました。


夏季休業で急ぎ手配する必要もなく、

担当がお客様との商談で見積もっている可能性も

あるので、まずは担当に確認をしたいと

伝えますが、その必要はないとおっしゃる。

なぜかと問うと、聞くまでもなく、こちらで

対応できることだからという回答でした。


納得がいかないまま、自我を下げ、

お客様にメールを書きました。


この件を観察します。


見積もり内容から推測し、社員の考えを通す姿は、わたしの意識を転写しています。

物事を自分の自我の意識で解釈し

それが正しいと決めつけているわたしの鏡です。


相手の話を聞く耳も持たず、譲らず我を通すことを

わたしもしている、ということですね。


またわたしは納得がいかないまま、

相手を否定したまま仕方なく指示に従っています。


わたしは最初から手配を保留にする、と決めている

意識があり、相手の態度を否定したまま、

話を聞いています。

この譲らない自我はまさに社員が鏡している

それです。 


自我と自我がぶつかり合っている。

変わらぬ景色がそこにあります。


相手の指示に従えば、自我を下げたことになると

思ってますが、その前にガッツリ衝突しているので

全く自我は下がっていないです。



相手はわたしの意識を転写した存在だとすると、

有無を言わせず自分の指示通りに動かそうとする

圧があるな。

お客様から発注依頼が来た、以外に確定的な事実は

何もないけど、もうひとりのわたしには、何か

確信があったのだろうな。

どんな確信なんだろ?

それを否定せず、流さず、聴いてみる。


まぁ、有無を言わせない圧では、聞くに聞けない

かもしれないけど、まずは決定も全て下げてみる。

それがいつまでたってもできないんだけど、

何がなんでも、やってみる。


今日もお付き合いいただきありがとうございます。

読んでくださってありがとうございました。