おはようございます。

昨日の振り返りです。


午後、地下鉄に乗る機会があり、下車して

階段を昇っていくと、地上から降りてきた

若い男性が足を滑らせ派手に転びました。

大丈夫とのことでその場を離れましたが、

振り返った際スマホが落ちているのが

目に入りました。

(スマホを見ていて滑ったんだな)と思考します。


手元に意識がいくと足元は盲目となる。

必ず盲目ができる世界に生きていることを思い出し

「今この瞬間」にフォーカスする観点を定着しよう

と決めました。



昨日は休日でしたので、

いろいろ思考を捕まえる時間に恵まれました。


そしてふと、わたしは感情的なものを

否定的に捉えているのでは?

という疑問が湧きました。


怒ったり、暴力的になったり、快楽に耽ったり。

動物的というか、そういった感情や

それに基づく行動を否定しています。

間違いなくわたしも持ってるんですが、

理性で隠してるような状態です。


夫だった人に離婚したいと言われた時

どんどん理性が剥がれていって

感情剥き出しになったなー。

そんな自分を醜いと思ったなーと思い出しました。

結果的にそれが今のわたし(覚醒に向かう) に繋がっているんですが。


情動を、否定して(隠蔽して)います。


離婚の時のアレ、課題だったのか。


そういえば、ずーっとやってますね、

感情ぶちまけて破壊するパターン。

ぶちまける前には猫の皮かぶってるやつ。

理性→理性→理性…ドカン💥

リセット

理性→理性→理性→ドカン💥💥

リセット…

(この場合の理性は感情的でない、物分かりの良い

というような世界観です)


情動と理性(というのかな?言葉が浮かびません)

自我に沿うことと摂理に沿うこと

と捉えるなら、進化の過程?ですかね。


情動を受容した上で、

理性を育てていけばいいですが、

今のわたしは否定を隠して肯定しているように

取り繕っているので、

(情動を下に理性を上に配置して、

情動のど真ん中にいることを隠して、

理性的であるかのような振る舞いをしているので)

砂浜の砂の城みたいな感じでしょうか。


ここまで書いて、

「あー、わたしは何も知らなかった。

幻想を生きていた。」

と思う「わたし」を観て気づく。

幻想から覚めたと思っているけど、

これ、もう何度でもやっているなと。


この「わかった!」体験こそ幻想で、

何度でも何度でも幾重にも重なった

幻想を解いていく道を創るのが進化なのでは?


「知らない」→「知る」

ではなくて

「知っている」→「知らなかった」

に気づく道を、創って行こうと思う朝。


おつきあいいただきありがとうございました。

読んでくださってありがとうございました。