おはようございます。

昨日の振り返りです。


「わたし」を上に配置する、ということに

フォーカスして1日を過ごすと、

マウント取りにいったりする自分に気づきます。


そんな自分に気づく度、

うげっ!こんなことしてんのか。

と慄きますが、してますね、はい。


昨日は人と接する機会が少なかったので、

謝罪の言葉についても発する度に、

捉えることができました。

詳細について忘れるということもありましたが。


どんな時どんな言葉を使っているのか、

ひとつずつ観ていく必要がありますが、

なかなかに抵抗しています。


ひとつ観察を書きます。


朝仕事に出かける息子に今日の夜の予定について

話しかけ、次のようなやりとりをしました。


「今日はうちにいるんだっけ?」

「今日はスタジオ」

「あ、ごめん、ごめんじゃない。あ、え〜と

昨日聞いてたね。忘れてた。そうだった。

スタジオ。スタジオ終わってからごはん食べる?」

「うん」


まず予定を聞く行為について、

その時の知りたい欲を叶えるための行動です。

前日確認しているのだから、必要なら

それをメモすることもできるのに、

怠惰からメモも取らず放置し、

朝再び聞いている。

わたし都合の質問です。


質問を繰り返したことへの ごめん ですが、

反射的に言葉にしています。

響きとしては空っぽの中身が詰まってない謝罪。

そのため言葉を口にするだけで、

何も改善しようと行動に移していません。


意識は「わからなかったら聞けばいいや」

という依存にあります。

ここから學ぶとしたら、

必要があって質問をしたなら、メモを取るなりして

自分で管理する、でしょうか。


形だけの謝罪では、

同じことを繰り返すだけですね。

至らない自分に気づき、

至らなさを少しでも至る方向に向かうように

行動する。


ごめんって言わないようにしよう

ではなくて、

ごめんを創ったわたしの至らなさ、幼さを

行動で変えていくということなのかな。


おぼろげにそんなことを思いました。


まずはカレンダーにスケジュールをメモする行動を

グラウンディングしました。


謝罪言葉にもパターンがありそうなので、

他の事象に対しても観て観ることにします。


今日もおつきあいいただきありがとうございます。

読んでくださってありがとうございました。