おはようございます。
わたしなりの受容とか融合とか、
一元の意識ようなものが更新されて2、3日経ちますが、
その上で現実を生きてみると、
いろんなことが刻々と変化していくのを感じています。
整理の続きとして、
わたしの体はわたしの意識とエネルギーの集大成だなってことを、
今後書いていくつもりでいましたが、
ちょっと脱線して、
今のわたしについて書くことにします。
まず、目の前の現実をただ在ると知る位置に配置するには
目の前の現実がどんな世界かを知る必要があります。
同僚が何かを語るなら、
その世界がどんな世界なのか知らずして
「ただ在る」と認識することはできないので、
その世界がどんなものか、
知りたいという欲求が生まれました。
これは傾聴に繋がるのだと思いますが、
相手の持つ世界を知るために
相槌をうったりする自分がいます。
この相槌も自我が出張り、
決めつけに近い歪さがあったり、
まだまだ改良の余地は大有りですが、
現実に向き合う意識は変わったように見受けられます。
ただ在ると知ること、
認識すること、
それはとても豊かなことだと感じる自分もいるようです。
それがたとえ傲慢な自分であっても、
ただそうで在ると認識すると、
言葉にはならないような
こころがふるえるような感覚になります。
それはもしかしたら
傲慢な幼いわたしが、
ここにいられることへの
感謝のようなものかもしれないし、
全く別のものかもしれない。
受容とか融合という世界を
今までのわたしは「許可する」「許す」ような世界観として捉えていましたが、
今は「ただ在ると知る」「認識する」という世界観として捉えています。
逆にそう捉えることができない時は
どこか歪みがあるのだと知りました。
また、凹の形に対して凸となるという世界観も
凸に「なる」ようなイメージでしたが、
今は凹だと認識することが凸となっているのだと捉えています。
到来する現実が自分にとって都合の悪いものだと
「知りたい」より「コントロールしたい」となる自分もいます。
そんな自分を制しようとする意識もまだまだあります。
制すると律するについては
言葉では別物だとわかっているつもりでしたが、
まだ律するという音を知らないことを知りました。
わたしが律すると言っているその響きは
今は「制する」にあると思います。
こんな感じで、刻々と変化しています。
理を知ればその瞬間から自ずと行動が変わる
以前ガイドさんに言われたことを思い出しました。
そうそう、観察サボってたので、
現実を観る目がイマイチ歪んでます。
この辺も試行錯誤だなぁ。
読んでくださってありがとうございます。