未知に慣れる
おはようございます。日々の振り返りです。よく湧く思考に「これでいいのかな?」というものがあります。仕事の作業なら、間違いがないか繰り返し確認したり、やり方がわからなければフローを調べれば解消されますが、覚醒に関することになると、方向性が間違っていないか、今書いているブログもそうですが、調べても正解はないので、あっている、大丈夫、という承認が欲しい。という想いが湧きます。合ってるも間違ってるもないのですが、湧くものは湧く。正誤の振り分け機能が働かないんでしょうかね、、未知だから。だから不安を創り、不安を解消する為に承認を求める。出来る自分でいたい。間違いたくない。目的地まで最短で到達したい。その欲を叶える確約がないことに警告を発してる。これが不安だと捉えてますが、わからないって当たり前のことですね。なんせ「未知」ですから。(そうすると、むしろこっちでOK!って自信もってる時の方が怪しいな。何を根拠にそんな自信があるのやら。)そもそも未知だということに慣れてない。そしてできる とか わかる に自分を配置してるから、できない、わからない状態を受け入れられない、だろうなぁと観ています。経験したことのないことに対して、できる、わかる が前提なことに驚きますが、わからない をデフォルトにしないと苦しそうですね。実際わからないのだから。いつかわかる日が来る、と思ってましたけど、それも幻想なんだろうな。無限に進化していくのだから、ひとつわかれば、次のわからないがある。わかるわからないということでもないのかも知れないけど。ずっと永遠にわからないままなんだってことを受け入れ難く、抵抗している「わたし」がここにいます。でもこれが一元の意識なんじゃないのかな。 無限の世界を基準にみたら、全てわかるなんてありえない。だって無限なんだから。だから「わからない」がデフォルト。自分がわかってる世界を基準にみたら、全部「わかる」になる。だってわかる世界しか観ていないから。わかる範囲が広がれば世界も広がる。「わかる」の背後にある「わからない」はノーカウントにしたらいい。広い無限空間を全とするか、線で囲ったわかってる世界を全とするかの違いはあるけど、どちらか一方だけの観点で観たらコントラストはなくなる。コントラストがないなら、わざわざわかるわからないにフォーカスしたりしないよね。ずっと「わかってる」し、ずっと「わからない」のだから。わたし生きてる、今も生きてるっていちいちフォーカスしたりしないのと同じこと。死を対極に置いた時初めて生を認識するように。ということは、今この瞬間が全て と観れば、対比はなくなる気がするな。飛躍しすぎかな?そんなこんなで、未知なので、それに慣れることにします。今日もおつきあいいただきありがとうございます。読んでくださってありがとうございました。