「暗闇の中で子供」/物語はなぜ存在するのか、そしてどこからやって来るのか | 旧・日常&読んだ本log

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流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

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舞城 王太郎
暗闇の中で子供―The Childish Darkness

煙か土か食い物 」の続編、お馴染み、血と暴力に彩られた奈津川ファミリーサーガ。
「煙か土か食い物」の時と同じく、表紙裏から引くと内容はこう。

あの連続主婦殴打生き埋め事件と三角蔵密室はささやかな序章に過ぎなかった!
「おめえら全員これからどんどん酷い目に遭うんやぞ!」

模倣犯(コピーキャット)/運命の少女(ファム・ファタル)/そして待ち受ける圧倒的救済(カタルシス)・・・・・・。
奈津川家きっての価値なし男(WASTE)にして三文ミステリ作家、奈津川三郎がまっしぐらにダイブする新たな地獄。
-いまもっとも危険な”小説”がここにある!

やっぱり、私は舞城さんは、この奈津川サーガが好きだー。「もっとも危険」かどうかは分かりかねるけれど、間違いなくアツい小説。

これは、奈津川家三男の三郎が語る、その後の奈津川サーガ。切れ者外科医、チャッチャッチャッチャッと物事をこなし、暴力も厭わない四郎に比べると、三郎は幾分穏やか? とはいえ、三郎も勿論あのモンスター・二郎を生んだ奈津川家の一員、普通の人に比べれば、暴力的にだってなれるし、暴力的な出来事にも随分慣れてはいるんだけど・・・。

さて、「三文ミステリ作家」である三郎は、物語について考える。この世には、現実に喜びも悲しみも楽しみも寂しさも十分に存在するのに、どうして更に作り話が必要なんだ? なぜ人は作り話、嘘を必要とするのだ? それはつまりこういうこと。

ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。涙を流してうめいて喚いて鼻水まで垂らしても悲しみ足りない深い悲しみ。素っ裸になって飛び上がって「やっほー」なんて喜色満面叫んでみても喜び足りない大きな喜び。そういうことが現実世界に多すぎると感じないだろうか?そう感じたことがないならそれは物語なんて必要のない人間なんだろうが、物語の必要がない人間なんてどこにいる?まあそんなことはともかく、そういう正攻法では表現できない何がしかの手ごわい物事を、物語なら(うまくすれば)過不足なく伝えることができるのだ。言いたい真実を嘘の言葉で語り、そんな作り物をもってして涙以上に泣き/笑い以上に楽しみ/痛み以上にくるしむことのできるもの、それが物語だ。

そして、三郎は物語の来し方にも思いを馳せる。

書き手が物語を選ぶのではないのだ。物語が書き手を選ぶのだ。「選ぶ」というのも少し違うのかも知れない。それは「選択」というよりは「邂逅」だからだ。物語が偶然書き手に出会い、それからこの世に出現する。 だから、物語は真実を語る手立てになりこそすれ、作家の道具には決してならない。 物語と出会い、それが語られたがっている語り口を見つけることのできたラッキーな作家だけが、その物語を用いて語れる真実だけを語ることができるのだ。

さて、この本の中で、色々な「嘘」を用いて語られている真実とは何なのか? それはクサいけど、「愛」について。歪な愛、痛い愛、家族の愛、友だちの愛・・・・。
そして、価値なし男、三郎は自らの価値を高め、生をはっきりと捕まえる。次なる奈津川ファミリーサーガはないのかなぁ。父、丸雄とか、母、陽子で読んでみたくもある。

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡下さい。