「わたしを離さないで」/この無慈悲な世界の中で | 旧・日常&読んだ本log

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流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

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カズオ イシグロ
わたしを離さないで

1990年代末のイギリス。

十一歳だったキャシー・Hは、ジュディ・ブリッジウォーターの『夜に聞く歌』に収められた「わたしを離さないで」を飽くことなく聴く。「ネバーレットミーゴー・・・・・・オー、ベイビー、ベイビー・・・・・・わたしを離さないで・・・・・・」彼女が思い浮かべるのは、一人の女性。子供に恵まれなかったのに、奇跡的に授かった赤ちゃんを胸に抱きしめ歌うのだ・・・。勿論、ここで言う歌詞の「ベイビー」は、赤ちゃんを指すベイビーではない。しかしながら、キャシーにとっては、母親と赤ちゃんの曲だったのだ。

三十一歳となった「介護人」のキャシー・Hは、「介護人」としての生活と、彼女が過ごした子供時代を語る。彼女が子供時代を過ごしたのは、ヘールシャムという施設。

癇癪持ちだけれど、明るい気質を隠そうともしないトミー、いつも思わせぶりながら、多大な影響力を持つルース、他の子供たち・・・。厳格なエミリ先生、率直なルーシー先生、子供たちにとって少々不気味な存在でもあった「マダム」。教えるべきことをきっちりと押さえた丁寧な授業。異様に力を入れられる、「創造的な」図画工作の時間。詩作・・・。繰り返されたトミーへの苛め。毎週の健康診断。外部から遮断され、入念に保護された生活。一風変わった寄宿舎生活にも見える、この施設での生活の秘密が徐々に明かされる・・・。そして、ヘールシャムからの巣立ち。彼女たちは十六歳でこの施設から巣立つ。

抑制の利いた筆致は最後まで崩れる事がないけれど、ここで語られ、やがて立ち上がってくるのは驚愕としか言いようがない世界。この世界の中で、ヘールシャムの子供たちはどう生きたのか? そして、その他の施設からやって来た「子供たち」の間にも根強かった、ある噂。噂は果たして真実なのか?

抑制の利いた筆致は、しかし残酷で無慈悲な世界を暴き出す。知りたがり屋のキャシーとトミー、それに反して信じたがり屋だったルース・・・。人にとって「最善」とは何なのか?

私の文章も、思いっきり思わせぶりになってしまったような気がするけど、これは本来、何の先入観もなしに読んだ本がいい本だから。でも、間違いなく凄い本です。是非是非、読んでみてくださいませ。面白くて読むのが止められなくなる本は、そう多くはないけれど、まぁ、それなりに数はある。
でも、久しぶりに切実な意味で、読むのが止められなくなる本でした。抑制された筆致ながら、胸に迫り繰る切迫感は凄まじいです。

カズオ・イシグロといえば、日の名残り」を読んだ切りだったんだけど(あのころは、イシグロ・カズオじゃなかったっけ?)、読んだときの自分の年齢が幼かったのか、本当にその良さを理解できたとは言えなかったような気もする。あれはリアリズムの世界だったけれど、こちら、わたしを離さないで」は近未来のあるかもしれない世界を描いて、その中で生きる人間たちの像が実に素晴らしい。ああ、凄い本を読みました。

先生の言葉から喚起された、ノーフォークという土地への子供たちのイメージ。イギリスのロストコーナー(忘れられた土地)、ノーフォーク。先生が授業で話した「ロストコーナー」とは、忘れられた土地という意味だったけれど、ロストコーナーには遺失物置き場という意味もある。子供たちの中で、ノーフォークはイギリスのロストコーナー、イギリス中の落し物が集められる場所となった。このノーフォークのイメージは、美しくも哀しい。

作中に出てきた、ジュディ・ブリッジウォーターという歌手。検索をかけてみたところ、どうやら架空の人物のようです。こんなところも、きっちりと作り込まれていたのだなぁ。 静謐な世界、喪われるものを描く点では、小川洋子さんの作品にも似ているように感じたけど、小川さんがそこまでは描き切らない痛いところ、辛いところまで、抑制の利いた筆致を崩さぬまま、きっちりと描いているような印象を受けた。

【追記】
他の方のブログで見かけて、気になっていた柴田元幸さんは、英米文学研究者なのですね。この本の解説は柴田さんがなさっています。「ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち」も気になるなぁ。


ポール・オースター, 村上春樹, カズオ・イシグロ, リチャード・パワーズ, レベッカ・ブラウン, スチュアート・ダイベック, シリ・ハストヴェット, アート・スピーゲルマン, T・R・ピアソン, 柴田 元幸
ナイン・インタビューズ

■その後に読んだ、カズオ・イシグロの感想です。

・「
わたしたちが孤児だったころ 」/揺らぐ世界の中で・・・・
・「
女たちの遠い夏 」/陽炎のようなあの夏の思い出・・・

記事には上げ損ねたけれど、再読した「日の名残り」も、昔読んだ時に感じたような、実直な執事の単純な昔物語ではありませんでした。抑えられた中から立ちのぼってくる様々な感情に、くらくらとするような物語。おっとなー!、なのです。