大江健三郎「あいまいな日本の私」
1994年ノーベル文学賞受賞記念講演ほか、全九編の講演がまとめられたもの。講演のタイトルは以下。
あいまいな(アムビギユアス)な日本の私
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癒される者
新しい光の音楽と深まりについて
「家族のきずな」の両義性
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井伏さんの祈りとリアリズム
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日米の新しい文化関係のために
北欧で日本文化を語る
回路を閉じた日本人でなく
世界文学は日本文学たりうるか?
表題にもなっている「あいまいな日本の私」が、ノーベル文学賞の受賞記念講演です。読んでみて分ったのは、大江さんという人がとてもチャーミングな人であるということ。ユーモアを交えた講演内容、易しい言葉で語りかける口調などが素晴らしく、ちょっと講演を聴きに行きたいと思いました。そして、読書量が尋常ではない。名前を薄っすら聞いた覚えがある作家も一部いますが、全く知らない作家の言葉も度々引用されています。
印象深かった箇所を挙げます。
息子であり、知的障害をもつ音楽家・大江光さんについて語った講演、
「新しい光の音楽と深まりについて」において、芸術について語った言葉。
芸術をつくるということは、現実の混沌とした世界に秩序を、かたちをあたえることだ。新しい才能を持った芸術家に、知らなかった新しい世界を感じるけれど、それは彼が新しい世界から来たというのではなく、新しい表現のかたちを持っているのだ。我々はそれを見て、自分の生きている世界を、あらためて理解するのだ。また、芸術家が自分のかたちを表現する際に、自分のつくるものによって、魂の暗い深みに入っていく。そうして、深みにあるものを発見せざるを得ないという不幸があっても、同時にその表現行為によって自分自身が癒され、恢復するという不思議、幸せがある。その不幸と幸せが重なりあい、重なり続けて、芸術の深まりというものをもたらすのだ。
絵、音楽、小説、漫画、映画…、いい芸術に触れたいと思いました。
同じく「新しい~」より、シモーヌ・ヴェイユというフランスの哲学者の言葉。
本当に価値のある人間は、苦しんでいる人に会って、「あなたはどのようにお苦しいのですか」と問いかけることが出来る人間である。不幸な人の存在を陳列の一種や、社会の一部門の見本のようにみなさず、私たちと同じひとりの人間と見ていくこと。その人間が、たまたま不幸なために、ほかの者には追随することのできない印を身に帯びるに至ったのだと知ること。そのためには、ただ不幸な人の上に一途な思いを込めた目を向けることができれば十分であり、またそれがどうしても必要なことである。そして、そのような人間になる努力として、注意力というものを訓練していけば、後になって機会が到来した時、不幸な人がこの上ない苦悩に苦しんでいるのに際して、その人を救う手を差しのべることが出来るようになる。
「「家族のきずな」の両義性」からは読書に関するお母様の教育のくだり。
公民館に置いてある本を全て読んでしまって悲しいのだと訴える健三郎少年に、母は公民館の本棚にある本を任意に取り出して質問をする。答えられないと「あなたは本をどういう目的で読むのか、それは時間をつぶすためなのか」と母がいう。「一ページ読んですぐ忘れるのなら、それは自分の忘れる能力を訓練するためか」と。
耳に痛い言葉です。
井伏鱒二の故郷で行われた講演、「井伏さんの祈りとリアリズム」からは、歴史に対する認識。 ヤーコブ・ブルクハルトという歴史家の言葉。
われわれは忘れちゃいけない、歴史を記憶していくことが重要なのだ、それが人間のやるべきことで、将来の道を探る方法でもある。そして歴史はエモーショナルに、感情的にとらえてしまってはダメで、冷静に歴史の事実を受けとめて、それを記憶し続けることが重要なのだ。
- 著者: 大江 健三郎
- タイトル: あいまいな日本の私
*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用・意訳を行っています。何か問題がございましたらご連絡下さい。