昨日が「仕事文の書き方」
だったので、今日は日本語について。
ちょっと硬い本が続きます。
大野晋「日本語の教室」
少し前に良く取り上げられていた本なのかもしれません。母と話していたら、「あら、その本、家にあるわよ~」なんて言われてしまいました。
いつだって世の中から遅れ気味です…。
実際の本書は「教室」と銘打っていても、このような日本語を書きなさい、という指導をするわけではありません。質問とその回答からなっていて、第一部は「さまざまな質問に答えて」、第二部は「日本語と日本の文明、その過去と将来」と題されています。
第一部は、何となく使い分けていた助詞や文法上の事柄等に、へ~、と感心しながら読んでいました。この辺りまでは、優しいおじいさん教授の講義を受けている感じでした。しかし、第二部からの迫力のあることといったら。日本という国、日本語に対する強い愛を感じました。
以下、感銘を受けた部分。
>漢字と漢文とを大野氏が重く見ていることから、発せられた質問に対し
日本人は漢文そのもの、若しくはその訓読系の文章によって論理的な組織化の重要さを学び、和文系の表現によって、情感のはたらきを受けとる能力を養って来た。この二つによって日本人の心がはたらかされてきたが、敗戦によって転換点が来てしまった。
敗戦後の日本の漢字政策は、かなり適当なものだったようで、必要な漢字をばっさり切り捨てられてしまった、強い怒りや憤りを感じる文章です。
>日本語は南インドのタミル語から来たという説を、氏はとっておられます。
つまり日本の殆どの文明は輸入されたものであるという立場。
文明の輸入国である日本には何が欠けているとお考えか、との問いに対し
日本人は全体像を組織的に捉える習慣を欠いていて、日本語の問題というとすぐ「美しい日本語」という。しかし現在の日本にとって大切なのは、感受に傾いた日本語の使い方ではなく、正確で的確な、文意の明瞭に分る日本語を、もっともっと心掛けるべきである。そして事実を第一に重んじ、真実に対して誠意を持つ行動を貫くこと。それが文明を把握し、消化する力、いわば文明力と対応する。
漢文訓読体という文章は文明に向き合おうとする意志によって維持されて来たが、それが敗戦後の言語政策によって壊されてしまった。人間の理と情という両輪の一方が、国民として脆弱になり崩れて来たのだ。
全体像を組織的に捉えるのは、正に私が苦手とするところ。
多少意訳していますので、伝わりにくいかもしれませんが、本当に気迫溢るる文章です。
その他、文化と文明の違い等も、目から鱗でした。
理・文化:位置が持つ自然に伴って生じる地方性(日本のわび、さび等)
・文明:生産に関する技術や、精神世界に関する思考の体系。世界に共通する技術と論
60歳を過ぎてから新たな研究【日本語は南インドのタミル語に端を発する】を始められたとの事。その気力も凄いものだと思いましたし、また良い研究をしている人は謙虚な姿勢を持っておられるのだなあ、と感じました。
*臙脂色の文字の部分は本文中より引用後、多少の意訳を行っています。何か問題がございましたらご連絡下さい。
- 著者: 大野 晋
- タイトル: 日本語の教室
ところで、日本語は古代タミル語に起源をもつとの説。納得して読んだのですが、古代朝鮮語等と絡めた解釈を行っていた「人麻呂の暗号」や「額田王の暗号」。当時面白く読んだのですが、今ではトンでも本に分類されてしまっているのでしょうか。