私の釣り好きの影響は父にあると思う。


典型的な昭和のお父さんでしかも職人、家では「メシ、風呂、寝る」程度しか口を開かない。
家族サービスなどもっての他で、外食はおろか泊まり掛けの旅行に至っては三指で収まる程度の記憶しかない。
何か気に食わないことをしでかすと即座に五厘刈り。
地球と同じく私の頭はいつも青かった。

そんな父が唯一構ってくれたのが魚釣り。
たまに連れていってもらう船釣りが愉しくて愉しくて。
船酔いと闘いながら苦労して釣り上げた真っ赤なマダイ。
未だ忘れることが出来ない。
私の入り口はまさにそこだ。

自転車で投げ釣りに行き始めた小学生の頃より多少遠ざかった時期はあれど、いま現在まで私は釣りを手離したことがない。




還暦を過ぎて突如喋り始めた父は、今や結構な爺さんであるが未だ現役のフカセ師である。
寒グレを専門で狙っているため、日頃アルバイトでせっせと金を貯め、冬シーズンに入るや否や長崎県の五島列島へ飛んでゆく。
やれやれ幸せな老後だ。
年末年始なども家にいたためしはない。
もっとも寒グレ自体は大変な美味のため、恩恵を授かる私たち家族から不満の声が出ることはないのだが。

私も青物釣りなど好きなものだから、父より毎度のごとく五島釣行に誘われる。
父も現地で色んな情報を仕入れては、私に殺し文句を浴びせてくる。

「隣の瀬に乗った若いのが10キロはありそうなヒラマサ釣ったど」
「今年はブリに混じってキハダもよく揚がっとるらしいぞ」

だの、いろいろ。

しかし私の腰は重い。
一時はその気になるのだが、結局は尻すぼみ。
青物アングラーの端くれとして五島列島はやはり聖地には違いないのだが、なんやかんやで父に同行したことは過去一度もない。

そういえば、大人になってからは船釣りにも行ってない。
お誘いはしょっちゅう頂く。
船酔い体質であることも大きな理由であるが、これも先ほどの離島釣行と同様、今いち踏ん切りがつかない。
結局はお断りする羽目となる。



私の名誉のために言っておくと、お金の問題ではない。
毎月毎月、馬鹿のひとつ覚えのようにルアーなんちゃらを買い漁っているのだ。
その分を廻せば船くらい乗れるし、たまになら五島だって全然行ける。
アマゾン、楽天、ナチュラム、最寄りの釣具店…、どれかひとつのセールをスルーするだけで予算は簡単に捻出できる。

では理由は何なのだろう?

私は何故にショボい地磯に通うのか。
私は何故に釣れない鱸を追いかけ回すのか。

自分でも不思議に思う。



先日娘の友達と話していたら、いつも何処に釣りに行っているのか聞かれた。
「そのへんの川」と正直に答えると、明らかに怪訝な顔つきをされた。
蔑まれた、と感じた。
これが「飛行機で島」という回答だったなら、果たして同じリアクションになっただろうか。

シーバス釣りでは見栄を張れない。
私が知った残念な真実だ。

釣れないわ格好はつかないわ。
しかし、それも構わず私は川に通う。
車に道具一式を詰め込み、空き時間を見つけては嬉々として川へ突っ込んでゆく。
ここまで私を惹き付けるものは何だろう。

ひょっとして…お膳立てが苦手なのかも知れない。
私のようなヘソ曲がりは、用意されたものに素直に乗っかることが出来ないのだろう。

誰かに連れていってもらう沖磯。
誰かに連れていってもらう洋上。

期待感より居心地の悪さが勝ってしまう。

何となく、そんな気がしてならない。



また、父の釣りを見てきて感じたことがひとつある。
釣りのステージを上げると元に戻れないのではないか、という私なりの恐怖だ。
無論、取らぬ狸の皮算用であることは百も承知している。

良い場所を知れば知るほど、近場のホームが陳腐になってしまう。
大きな魚を追えば追うほど、身近な季節魚が遠退いてしまう。

そんな風にならないか?
私はとにかくそれが心配。

私の父は若い頃は船釣りばかりだった。
ちょっと飽きてしまったのか、磯の釣りに手を出した。
やがてグレ釣りを知ることで瀬渡しを使うようになる。
当初こそ車で行ける範囲、大分や熊本の少し離れた離島で釣りを始めたものの、最終的には飛行機で行く五島列島一本の釣りとなった。
ここ十数年は他の釣りには一切手を付けていない。

父が口癖のように言う。

「五島を知ったらアホらしくて他じゃようやれん」

私が瀬渡しの沖磯や船釣りに手を出せないのは、まさにここなのだと思う。


エキスパートの諸兄からは怒られてしまうだろうが、私がシーバス釣りに感じる一番の魅力はなんといってもその「手軽さ」にあると思っている。

私のような陸っぱりのスニーカースタイルであれば尚の事。
思い立ったが吉日、道具さえあればとりあえず成立するのだ。
少し車を走らせでもすれば、川なり海なり場所に困ることはないだろう。
釣れる釣れないを差し置けば、シーバスのルアーフィッシングこそ究極の手遊びではあるまいか。

但し、釣果に拘るのならハードルは高めであることをつけ加えておこう。
結局のところ敷居は高いのか低いのか。
正直よく分からない。
各々釣りのスタンスによって異なってくるのだろう。

私の場合、釣りに求めるものは釣果だけではない。
風景や音や匂い。
私は癒しの時間が欲しい。
せわしない毎日、便利なモノに溢れた生活。
心の中を空っぽにすることができるのは、釣りをしているときだけなのだ。

釣りをいつも手許に置いておきたい。
私のささやかな願い。
その願いを叶えてくれるシーバス釣りに出会えたことを、私は心から感謝している。

私にはどんな老後が待っているだろうか。

ゆくゆくは川のほとりに居を構え、自転車に乗って毎日釣りに出掛けたい、なんて思う。
出来れば清流河川の上流あたりがいい。
昼になれば手弁当を頬張りお茶を頂く。
移ろう季節を感じながら、静かな川面の流れに耳を澄まし、草を枕に昼寝をする。
魚などはたまに釣れてくれたらいいのだ。

センチメンタルなおじさんは日々こんなことを夢想しながら過ごしている。



私は釣りと共に過ごしてきた。
父もまた、釣りに生かされてきた一人なのだろう。
そんな父と酒を交わせば、花が咲くのは専ら釣り談義。
父も私も熱が入る。
ここ数年ドラグのことをドラッグと真顔で言っているが、もうつっこむ気は失せた。

「そんなときゃドラッグをキツめにせんとな~わっはっは」

他人が聞けばきっと誤解を生む会話。
しかしこれこそが私たち父子の繋がりである。