間違った選択 | 恵翠(けいすい)書道教室

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私は随分長い年月、真理追求に没頭してきたと思う。しかし、やってきたその多くは間違っていた。その間違っていた課程のなかで、多くの人と触れ合ってきた。正しいと、そして良かれと思ってやったこと、人のためになると固く信じてやったことが、実は間違っていたということも決して少なくはなかった。

罪とは、間違っているとわかりつつも自己中心な考え方に負けて行ってしまう悪行のことである。善行と思ってやったことであるなら、間違うこと、挫折すること自体は、罪に定められるようなことではなく、許されるべきことであると思うのだ。

問題は、間違いに気がついたら、全身全霊で悔い改め(反省し)、正しい道へと軌道修正することにある。

自分自身の心の中ではすっぱりと断ち切る(切り替える)ことが出来ても、人間関係のしがらみの中で保留しなくてはならないことが数多く存在することは当然である。私は、それまで助け合い、励まし合ってきた人間関係を、間違いに気づいたからといって安易に切り捨てることができない。

そのことを相手にどうしても伝えたいと思うのだが、人によって理解できる速度が大きく異なるため時間を掛けなくてはならない問題なのだ。その人にも、きっと理解に時間が掛かる、多くのしがらみがあって当然なのである。自分はすぐに変えられるとしても、他人は簡単に変えられないのである。そういう場合は、間違った価値観に魂が惑わされないように、信仰の武具をしっかりと身にまとって生きなくてはならない。

むしろ、そういった緊張感のある方が、優れた信仰生活を送れるような気さえする。

私は、人の間違いを指摘することは趣味ではない。自分も多くの間違いを経験してここまで辿り着いたからだ。ただ、心から良いと思えるものを紹介していきたいし、そのことについて分からない人がいたら、あくまで個人的に丁寧に教えるよう心掛けたいのだ。

しかし、インターネットを用いての多くの人へ向けてそういったことを発信することは控えるべきと考えるようになった。個人的フォローの出来ない媒体を用いる限りにおいて、正しさとは、ある意味暴力になりかねないからだ。だから、あえて詳しくは語らないようにしている。本当に語りたいことは、インターネットで公開することは難しいのだ。

アンジェリカ・ザンブラーノ(Angelica Zambrano)は、たいへん若くして真理に至れた奇跡の少女である。ある意味、彼女の無力さゆえに神が入って来られたのかもしれない。若く無力な彼女は、神の力を得て勇者となっていったのである。ただ、彼女は人生の経験があまりに浅いため、宗教の異なる、または生活文化圏の異なる多くの人々への心の配慮に欠いている感じは否めない。

私も、カトリック信仰や、シュタイナー教育など、大切にしてきた価値観を完全に打ちのめされたのである(打ちのめされただけでなく、その日から新たなインスピレーションを受け続けるようになった感じがしている)。

彼女のそういう面は、若いゆえに仕方ないのだが、私もそういう熱き時代があったような気がする。彼女の若い情熱とあふれる信仰は、私が今、最も取り戻したいものでもある。

私の中では大きく変わっても、私の生活が大きく変わることはない。これからもカトリック信者であり続けるし、シュタイナー教育の研究は、これからも友人たちと進めていくことだろう。とはいえ、きっと目に見えない世界で、周りの人には気づかれない形で、新しい自分が再構築されていくのだと思う。そして、それが、神から与えられたミッションを果たすための準備となっていくのだと思う。

私が遠回りしていることにもきっと意味があるような気がする。

アンジェリカ・ザンブラーノは、きっとカウンセラーには向かない。人生経験が少ないことはもちろんだが、誰もが彼女のように正しくは生きられない。私は、能力に乏しく、不愛想な人間でも、仕事に就けて生きていける社会が良い社会だと思っている。

救いようの無いような人間の心でも、優しく受け止めて安心させられるのでなくてはカウンセラーにはなれないのだと思う。聖書の御言葉に反するからといって、悪に定めたり、滅びに定めてしまっていいのだろうか。私なら、アンジェリカの信仰を真摯に受け止め、自分はそのような信仰に生きようとも、全ての人を平等視したい。そのような考え方は甘いのだろうか。それは嘘の愛なのだろうか。

私は、ブログではツクヨミ(月読)と名乗っているが、実は猫的な人間なのである。猫と心が通じやすく、猫の行動に学んでいる面もある。太陽ではなく月。朝型ではなく夜型。公開主義というよりは秘密主義。トイレはしっかりと鍵をかけ、裸を見られることを好まない。規則に縛られるのが嫌で、自由な発想を大切にしている。だから、規則に当てはめて人を裁くことは、どうも苦手なのである。

正論に対し、ついつい違う角度で考えることをしてしまう。だから、もっと優れた考え方が見つかるような気がしてならないのだ。猫は動物なので、地獄に落ちることはない。地獄に落ちるのは人間だけなのである。地獄に落ちない猫は、自由に生きながらも、自然と一致しているのである。人間は自然を破壊する存在ゆえに救いようが無いのである。私は自然の法則に真理を見出すことが多い。

アンジェリカは、偶像礼拝者は全ての者が、生きている間に悔い改めない限り、死後、滅びに定められ火の池に投げ込まれると言い切るが、私は、できることなら、そのキリストを説得できる者になりたい。そして、説得できる者になるために、キリストに信頼される者となりたいのだ。知性のある者たちを集めて議論し合い、新たな救いの道をキリストに提案したいとさえ思う。神を絶対視しつつも、決して神の言いなりになるのではない。正しく自由を用いたい。愛の神は、私たちの話し合いに応じてくれるものと信じている。正論はもちろん真摯に受け止めるのだが、自分の考え方も大切にしたいのだ。そうできるために、できることなら誰よりも正しく生きたいと思うのだ。

地獄に落ちない猫は、自由に生きながらも、自然と一致しているのである。人間は自然を破壊する存在ゆえに救いようが無いのである。私は自然の法則に真理を見出すことが多い。

アンジェリカは、偶像礼拝者は全ての者が、生きている間に悔い改めない限り、死後、滅びに定められ火の池に投げ込まれると言い切るが、私は、できることなら、そのキリストを説得できる者になりたい。そして、説得できる者になるために、キリストに信頼される者となりたいのだ。知性のある者たちを集めて議論し合い、新たな救いの道をキリストに提案したいとさえ思う。神を絶対視しつつも、決して神の言いなりになるのではない。正しく自由を用いたい。愛の神は、私たちの話し合いに応じてくれるものと信じている。正論はもちろん真摯に受け止めるのだが、自分の考え方も大切にしたいのだ。そうできるために、できることなら誰よりも正しく生きたいと思うのだ。

こういう性質ゆえ、人から誤解されることは多いが、キリスト様は私のことを全てご存じなので、あえて誤解を弁解しようとは考えていない。

正論をしっかりと心に刻ませてくれたアンジェリカには心から感謝している(Part.1Part.2)。あくまで、正論が基本であるからだ。アンジェリカのお陰で、私は、あくまで自分の心の中において、間違いが正され、神への信仰が強まったことは事実なのである。そして、そのことでブログには書けないことをたくさんインスピレーションにより気づいてしまったのである。つまり、安易には語ってはいけない現実に目覚めるようになったわけである。



P.S.(3月22日、朝)
やはり、神の律法には完全に服従するべきなのだと考え直すに至った。


P.S.(3月22日、夜)
たまたま出会った牧師さんとじっくり語り合うことが出来た。そのことで心が楽になった感じがした。私は少し、深刻に考えすぎていたようである。


P.S.(3月24日、夜)
どうやら私はシュタイナー教育の学びのメンバーとしてはふさわしくないとのことだった。私が聖書信仰に目覚めたことが原因ではあった。私の蔵書の中でもシュタイナー関連が最も多く、気合を入れて勉強して来たつもりではあっただけに残念でならない。どうやら輪廻転生を受け入れられないところがネックとなってしまったようである。私としては、受け入れられないところは保留し、受け入れられるところだけ受け入れられるというものであって欲しかった。というのは、受け入れられないと言っても、否定したわけではなく、キリスト信仰とは別に、宗教とは別のあくまで哲学(もしくは神秘学)としてのジャンルとして認識できれば問題はなかったのだが、シュタイナーの理論では独特のキリスト観があってベーシックなキリスト観と対立してしまったのである。キリスト者次元を超えた高度な次元なのかもしれないが、私はキリスト者次元さえも全うできていない人間故に、理論だけ先走りすることに困難を感じたのである。

シュタイナー教育と言うとネーミングがカッコ良い感じなのでつい惹かれてしまうのはやむをえないが、私の場合、キリスト教の神聖さとは異質のものと感じてしまったのである。そのエッセンスは、大いに役立つものであり、今後も生かしていくつもりであるが、疑問点も少なくなく、そこを埋め合わせることができなかった。そこを埋め合わせるための議論ができたなら、私も続けていけたことだろう。

例えば、優れたカウンセラーは多くの技法を持っている。そして、そのケースによって、それにふさわしい技法を選び抜き引き出して用いるわけである。私にとって、シュタイナー教育とは、ケースに応じて引き出す技法の一つとしての価値を保ち続けるものだと思う。シュタイナー教育は引き出しの一つに出来ても、全ての引き出しにはできない。そして…(詳しくは、いつか書きたいと思う)。


P.S.(4月2日、朝)
神は脅迫により、信仰に立ち返らせるようなことはなさらない。

自由意思を尊重されるからである。

天国と地獄の存在することは理解できるが、一部のキリスト教宗派をひいきするようなことに関しては後付けのものと受け止めるべきである。


私も彼女に近い霊的体験を何度かしているが、私を守ってくださっている方はイエス・キリスト様と私は勝手に思っているのだが、本人が名を明かしてくれたわけでは無い。多分、彼女に話をしたキリスト様のような方は、彼女の信仰を考慮して、話したと思えるが、プロテスタント的な内容まで話したとは考えにくい。神のような全てを超えた御方が、キリスト教の特定の宗派をひいきするような立場に立って話すとは考えられないからだ。彼女の話したことは本筋では正しいと信じることが出来るが、いくつか付け加えられたことがあるとも感じている。

私たちは、霊界を見ることが出来ない。稀に見ることが出来る人がいたとしても、ほんの一部を見たに過ぎない。神は、霊的体験でヒントを与えてくれるけれど、地上に生きている者に完全なる真理を教えてはくれない。つまり、地上では地上生活にふさわしい権威ある神でも、私たちが霊界に目を向けた途端「曖昧な神」となってしまうのだ。これからどんなに科学が発達し、真理の一部が次々に解明されていこうとも、人間の叡智では「曖昧な神」を「真実の神」として知るには至れないのだと思うのだ。

しかし、優れた人間は、その真理のかけらの一つ一つを拾い集めながら、最善な方向性を持ち続ける人生を歩めるのだと思う。つまり、真理を追究しない者は、死後に得られるかもしれない真理の扉が開かれ、その先へと続く世界を知ることができない残念な人たちなのだ。「わからない」の状態にあるのに、わかったつもりになり、真理を追究することをやめてしまっては実に惜しいのだ。真理とは、愛の伴うものであり、愛に生き無いものには真理は無い。ただ、その愛とは情に流されるような愛ではなく、自分も相手も高めるための愛なのである。私たちは曖昧にしか神を知ることが出来ない状態にある故、神は私たちに完全さを求めてはいない。神からいただく真理のパーツを一つでも多く拾い集めて、来る日のための準備を整えることにあるのではないかと思うのだ。


P.S.(4月7日、朝)
いかなる宗教を学んでも真理に至ることはありません。

なぜなら、真理とは、死後、高い次元の霊界に入ることが許された者にしか知らされることは無いからです。

あの世の、つまりは高い次元の霊界に、この世の穢れた価値観が入り込むことがあってはいけないし、この世、つまりは私たちの次元に高い次元の価値観が入ってきてもいけないのです。

私たちが、霊界を見られないのはそのためです。その人の悟りのために、低い次元の霊界は見ることができる場合があっても、そこでは真理に至ることはありません。真理を知ることのできる高い次元の霊界には、決して、この世に生きながら繋がることはありません。

つまり宗教とは、真理を学ぶものであっても、真理そのものとは言えないのです。

それなら、宗教など学ぶ意味はないと思いがちになりますが、そうはいきません。

この世で、宗教を学び、多くの悟りを得、魂を磨かなくては、死後、高い次元の霊界に入ることが許されないからです。

魂磨きをするには、やはり宗教しかないわけです。

こうなると、どの宗教が正しいとかという議論はほとんど意味を持ちません。どの宗教が自分の生活に合っているか、向いているかと考えるべきなのでしょう。

先祖からの家の宗教を守るという価値観もありますが、それも社会生活の上で必要な概念であるのかもしれませんが、儀式中心の義務的なものになってしまう可能性もあります。それでは精神性に繋がる学びにはなりません。家の宗教の他に、「私の宗教」という概念があって良いのだと思うのです。

ちなみに、私の場合、家の宗教は曹洞宗による仏教ですが、「私の宗教」はキリスト教です。一応、カトリック教会には属してはいますが、自分としてはこの世に存在するどの教会にも属さない純粋なキリスト教にこだわっています。ただそれは、あくまで私の信仰ゆえ、人に押し付けるようなことは決してしません。教会員として福音宣教となる活動をする場合は、あくまでカトリック信者として、信者さんたちと共に同じように行うことを心掛けています。

YouTubeを見ると、それぞれの人たちが、自分の宗教の正しさを主張する証を公開しています。つい感動してしまい、正しい宗教を見つけたと勘違いしてしまいます。しかし、そこに動画製作者の意図があることを考えなくてはなりません。証の一部は真実であったとしても、その宗教の正統性を主張するためのキーワードが多く入っている点に疑問を感じずにいられないのです。

はたして神が、特定の宗教者だけをえこひいきするのでしょうか。神の証は、その人が悟りを得るためのものであり、曖昧になっている筈です。キリスト様のような姿に見えたとしても「私はイエス・キリストです」と名を明かすことは無い筈です。または、聖母様のようなお姿に見えたとしても「私は聖母マリアです」と名を明かすことも無い筈です。

その奇跡の御方は、その人が受け入れやすい姿で現れているのであって、ある宗教だけを認め、そうでない宗教を否定するという形は取らない筈なのです。あくまで私たちが真理に心を向けるための向けるためのヒントとして、「真理のようなもの」の体験をさせてくれている筈なのです。この世に、高い次元の価値観を知らさないためにそうしているのだと考えられます。

私はキリスト者なので、私が奇跡を受けた場合にも、奇跡の御方は、キリスト教的な姿で現れてくれました。そして、聖なる世界を曖昧な形で示してくださいました。この場合、体験したことをそのままの形で伝えるとするなら、曖昧な証となることでしょう。それゆえ、その曖昧さを批判する人もいて当然なのですが、真理の本当の意味を理解している人なら、曖昧さゆえに真実であると高く評価してくれることでしょう。

宗教ではなく、哲学や神秘学でも魂を真理に向かわせる方向性は得られると思います。

大切なことは、その人が、富への執着に囚われることを抑えることができ、魂を真理へと向かわせる方向性を持ち、いつ死んでも困らない状態に至っているかということなのです。

その人が、そういう状態になれるのなら、その人にとって一番ふさわしい宗教、または哲学と言えるのではないでしょうか。

良い教師とは、学ぶものの質問に何でも応じられて、その人が自分の意志で、自分に一番ふさわしい宗教や哲学、あるいは神秘学を見つけられるように援助してあげられる人なのだと思います。そういう意味で、教師はあらゆる概念に通じている者でなくてはならいと思うのです。

悟りの境地を得られた人は、あらゆる欲求をコントロールでき、自分で自分を癒せる能力を得ることが出来ます。他者評価に振り回せられることが無く、しっかりとした自己評価に生きています。あらゆる困難が目の前に立ちふさがっていようとも、希望を持ち続け、あらゆる努力を試みて克服することができます。また、死への恐れが無いので、いつも心には平安があります。自分の欲望や名誉よりも、他者が良くなることに、いつも心が向いていて、他者が良くなるよう援助することに喜びを持てる人なのです。

「いいえ/NO」という言葉、つまりは相手を否定する言葉を出来るだけ使わず、「はい/YES」という言葉、つまりは相手を肯定する言葉で人と交流する。とはいえ、そうするにはかなり頭を使うことになるでしょう。悪い価値観に安易に「はい」とは言えないからです。しかし、「いいえ」を使わないでいかに交流することとは、大変知恵のいることですし、人を指導する場合においても、カウンセリングにおいてもとても重要な考え方と言えるのだと思います。

それに加えて、金持ちの視点ではなく、貧しい者に眼差しを向けた捉え方をすることで、より真理に向かう方向性が得られることでしょう。世界の8割の人は貧困に苦しんでいます。また、2割の裕福な人たちであっても、現代社会は大変不安定な世の中となってきているゆえ、いつ職を失い貧しい者になるかわかりません。貧しくても楽しめる、豊かになれるスキルを得ることはとても重要なのです。

仮に世界中の人がそう考えられるようになるとするなら、この世から紛争や戦争、テロも無くなることでしょう。

ここまでお話ししたことは、子供たちへの教育にも導入するべき内容であり、偏りのない道徳教育として生かされるように思うのです。つまり、宗教を無視して無神論や物質主義に走るのではなく、中庸で、全てのことに極端を避け、世界中のすべての人と共有できる価値観に目覚めさせる内容であるべきなのです。

特に、教師の奇跡体験の証は、子供たちに力を与えるものとなることでしょう。

良い教育は、子供たちの良心を向上させ、生命力を向上させ、能力を向上させることが可能です。短気な性格から、病気がちだった子が、良心を向上させるアプローチによって、生命力を回復させ、次々に眠っていた能力を開花させていった例を私はこれまで、いくつも見てきました。

私は、「世界のスタンダードになるような教育を作り上げるための一員になりたい」と願って教師の仕事を行っています。

私の場合、私の心をいつも支えてくれているのは宗教です。くじけそうな心を励まし、倒れても、倒れても、立ち上がる勇気を与えてくれたのは宗教なのです。

たかが宗教と思うことがあったとしても、されど宗教なのです。

そこの体験を生かしながら、中庸な立場に立ち、宗教色に偏りのないバランスの取れた教育を作り上げていきたいものだと思います。





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