葬儀屋さんが来て、葬儀代の明細と振込用紙を置いていった。その際、母がクリスチャンになるかもしれないので、母の葬儀をキリスト教式で出来るか尋ねてみた。すると、「それは大変な問題です。お母さまがクリスチャンになると大変なお金が掛かりますよ。まず、お父様のお墓を処分して更地にして寺に返さなければならないし、寺に多額の違約金を払わなくてはなりません。さらに、そのお墓を立てるための別の墓地を探さなくてはなりません。それは半端な額ではありませんよ。ですから、クリスチャンになるのはおやめした方が賢明かと思います。」とのことだった。
家族の誰が寺と、違約に関する契約を交わしたのだろうか? 先祖なのだろうか? 契約書なるものは存在するのだろうか? それとも仏教界での常識なのだろうか?
5年ほど前、菩提寺の住職から檀家と大手の葬儀屋とのトラブルが絶えないので、お寺が指定した葬儀屋に変えることということでその葬儀屋に変えたわけだが、まさかお寺とそこまで癒着しているとは思わなかった。七日、三十五日、四十九日、百ヶ日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌まで書いたスケジュールも渡されている。お寺と葬儀屋が儲けるためのシステムにまんまとはまってしまっていると気づいたのだ。このシステムはお釈迦様の教えとは全く関係ない筈である。
私の書道塾では、毎年、やめていく子も何人かいる。しかし、快く承諾し、祝福して送り出している。無理に引き留めることはしない。やめても大学合格を知らせに尋ねて来る子もいるし、また習いたいと戻って来る子もいる。自由とはそういうことではないだろうか。生計を守るために、脅して留まらせようとなど考えたこともない。それゆえ、お寺さんと葬儀屋さんのやっていることには疑問を感じずにいられないのだ。
日本国憲法では、信教の自由が保障されている筈である。
下記は、日本国憲法からの抜粋である。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
私は故人(父)の遺志を尊重して、お寺との付き合いを大切にしたいと考えている。これまで寺の御持会費も払い続けて来たように、これからも払い続けていくつもりである。しかし、母の生きがいと孤独にならないように教会に通うことも尊重したいのだ。それに未来のことはどうなるかわからない。これから出会う人を予測できないわけだし、決めたような未来になるとは限らない。
私に子どもが出来て、その子がお寺を守る人になるかもわからない。母がクリスチャンになるということだけで厳しい審判を下すかのように、大げさに大金の掛かる話を持ち出してくるのはいかなるものかと思うのだ。
私個人としても、人生の苦しい時に、私を救ってくれたのはキリスト様の言葉であった。それは、教会で出会った感動に基づいている。さて、お寺でそういった感動にどれほど出会ってきたのだろうか? 多分、栄えているお寺なら、私同様に、人生の苦しい時にお釈迦様の言葉に救われたという人がいるに違いない。人は魂の糧を求めに宗教を求めるのだ。大切なのは、そこにあるのだと思う。
私は収入が少ない者ゆえに、自分が出来る範囲でしかお布施はできない。そこで無理をしたからと言ってご利益があるものでもないと思うのだ。お布施の額で、その人の霊界での地位が決まるというのも納得できない。神仏は、見えないところでの善行をむしろ認める筈であるからだ。
とはいえ、知恵を持って、この問題を対処していきたいと思う。母が全く協力してくれないという大変な状況においても、全力で頑張って全ての手続きを済ませることができた。そのことで火事や震災があったとしても何とかなるという手ごたえというか自信を得た。しかし、こんなところに手ごわい悪魔が潜んでいるとは思わなかった。簡単に解決できない問題に出会ってしまったのである。
日本国憲法では、公立学校で宗教教育をしてはいけないとある。宗教教育を求めるのなら、私立の学校に入れれば良いわけだし、いかに優れているものとはいえシュタイナー教育的な内容を公立学校に求めてはいけないのである。つまり選択する自由が私たちにはあり、自由があるから失敗もあり、失敗もあるから成功もあるのである。強制されるところに自由は無く、発展もないのである。こんなやり方で、お寺に発展はあるのだろうか?
皆さんのお知恵を拝借したく存じます。どうぞ気兼ねなく、コメントを書いてください。よろしくお願いいたします。
恵翠書道教室 盛岡教室
恵翠書道教室 滝沢教室