神秘世界への冒険 | 恵翠(けいすい)書道教室

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 私は、シュタイナーの理論(ファンタジー)を私は半分どころか百分の一も理解できていません。つまり、その理論を実感できないゆえ、ただその知識を覚えるという作業しかできないのです。それではどうも腑に落ちません。頭ごなしにシュタイナーは正しいと決めつけて信じるというようなやり方では、実に非科学的であり、カルト宗教のやっていることと大して変わらないことになってしまうからです。

 シュタイナーは、その難解な理論を理解するためのヒントとして、秘儀という言葉をよく用いています。シュタイナーの著書を読んだことのある人なら、実に多く目にしている言葉だと思います。つまり、秘儀を知ることなしに、シュタイナーの理論は実感として理解できないということを意味しているようなのです。

 これは私の勝手な想像ではありますが、その秘儀とは、以前は時代的背景から大変な迫害があり、表に出て活動ができず選ばれた者たちにより秘密裏に守られてきたもので、時代が変わり科学の発達とともに、現在では一般にも開かれたものになったという説です。ただ、開かれたものになったとはいえ、その入り口がどこにあるのかは全くわからないのです。

 そうなると秘儀がどこで学べるかを探し当てるということは、一つの冒険と言えるのかもしれません。しかも人生を掛けた冒険になりそうであり、困難や試練を乗り越えて到達できる、感動の多い素晴らしい冒険になるのではないかと私は大きな期待を込めているのです。

 つまり秘儀を知り得ていない私が、ここでシュタイナー理論を語る資格など無いのかもしれません。何といっても、私はシュタイナーと出会ってまだ2年と月日が経っていないわけです。母から受け継いだ書道塾では食べていけないので、それこそシュタイナーを学ぶのとほぼ同時に新聞配達を副業としてやってきているのですが、そのことで慢性的睡眠不足に苦しんできました。しかも、まともに本を読む時間が物理的にも得られないのも痛手ではありました。それでもシュタイナー教育の研究に挫折しないで来られたのは、不思議と新聞配達にありました。

 それは、この睡魔と闘いながらの新聞配達が、わずかに読んだシュタイナーの知識を2倍どころか10倍にも広げてくれたのです。私は、新聞配達中にフィレモン(守護霊のような存在で、ユングの『赤の書』に出て来るフィレモンと近い存在だと感じられたので、私が名づけたものである。)との対話を楽しむようになりました。この対話が、わずかに読んだ知識を実感へと押し上げてくれるのでした。また、多くの気づきを得ることができ、感動の連続でした。

※ ユング:カール・グスタフ・ユング Carl Gustav Jung、1875年7月26日~1961年6月6日 スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究し、分析心理学「通称・ユング心理学」を創始した。

 私は、この知識をある程度極めるには、最低でもあと5年は掛かると見ています。2年弱のしかも悪条件が重なる現在の状況において、シュタイナーの理論を語るのは甚だ難しいのですが、フィレモンとの対話を経て、ここまで実感に至ったものについて紹介してみたいと思います。


 光があるところでは、物を物として認識できます。

 光の無いところでは、そこに物が存在していても、物を物として認識できません。

 目に見えなくても、確かに存在するもの。人間の視覚の範囲では得られない情報がそこにあることを、まずは感じられなくてはなりません。

 まず、音楽は耳で聞くことはできますが、目には見えません。電波も目には見えませんが、ラジオやテレビで波長を合わせることによって、音による番組や、映像付きの番組を楽しむことができます。

 人間の体は物質(有機物)です。その物質である肉体に生命を与えている力も、目で確かめることはできません。しかし、そのことについて確実に確かめる方法があります。私達は怪我をすると、その人が怠けていたとしても、体は怠けることなく、直そうと働きます。心臓も休むことなく鼓動し続けています。気分が悪いからといって休むというようなことはありません。

 腎臓は、血液をろ過するための重要な臓器です。病気で、手術により2個ある腎臓のうち1個を摘出するなどして失ってしまうと、腎臓の機能は半減してしまうかというとそうではなく、残る1個が2倍の大きさになって同じように働こうとします。医学的には、生体の恒常性(ホメオスタシス)と呼ばれる機能です。このように、私達の体には働き者でポジティブな力が与えられているのです。このポジティブな力を、シュタイナーはエーテル体と呼んでいます。

 エーテル体は、エーテル界からこの生命力を注がれているのですが、これは電気に例えることができます。赤い電球、青い電球、黄色の電球があるとして、電球の光の色は異なっていたとしても、そこに供給される電気は、色とは関係なく皆同じなわけです。この電球は、肉体に例えることもできます。個人個人、個性的な容姿や性格を持っているからです。

 さて、どんなにエーテル体が働き者でポジティブでも、人間の心の方はポジティブとは限りません。中には「私なんて死んだ方がよい」などと考えている人もいます。どんなにポジティブな人でも、調子を失ってネガティブになることもあるでしょう。このように不安定な心を作り出している存在を、シュタイナーはアストラル体と呼んでいます。

 人間の心(アストラル体)は、目には見えないものですが、明らかに生命力(エーテル体)と異なるものであることは理解できるのではないでしょうか。

 アストラル体は、ネガティブなものばかりではなく、とてもポジティブな場合もあります。眠っている時、アストラル体はアストラル界に包まれて癒されているのだそうです。とはいえ、アストラル界はポジティブな魂しか受け入れないので、ここで癒しを受けられるのはポジティブな人だけとされています。ポジティブな人は、睡眠が深く、啓示的な夢を見ることが多いのに対し、ネガティブな人は、睡眠が浅く、悪夢を見ることが多いだといいます。肉体とは、脳の「意識」の部分と繋がっていると考えられます。

 次に、脳の「無意識」と繋がっている目に見えない働きもあります。シュタイナーはこの世界についても詳しく述べているのですが、無意識ゆえ、誰にでも理解できるものではなく、理解度に個人差がでてくるものでもあります。私が、常日頃述べている、「わからないことは、わからない」で処理し、「わかった」つもりにならないことが大切という基本的な考え方を持たないと先に進むべきでないのかもしれません。でないと、前にもお話したようにシュタイナーの教えがまるで宗教のような絶対的なものになってしまう恐れがあるからです。



 からだ:【肉体】 目に見える。ラジオなどの機械に例えて考えられる。物質の中でも無機物とは異なる有機物。遺伝的要素が大きい。健康⇔病気。調子良い⇔調子悪い。出来る人⇔出来ない人。脳の新皮質は、アストラル界と関連(アクセス)があり、脳の旧皮質は、コザール界やメンタル界と関連(アクセス)がある。感度(霊界とのアクセス)の良しあしは、人によって大きく異なる。機械の故障のように脳が損傷されると、そういった霊界とのアクセスが困難になる(リハビリによる復活は可能)。死ぬと失われる。

 いのち:【エーテル体】 目に見えないが、感じ取ることはできる。電気に例えて考えられる。生命力・回復力そのもので、エーテル界から注がれている。ただし、人により質ではなく量の面で異なる。強い⇔弱い。全ての人に平等に与えられ、超ポジティブである(ホメオスタシス=こころとは全く別で良くなろうとする性質)。睡眠時、アストラル体がアストラル界で浄化されることにより蘇る。睡眠障害は、エーテル体を大きく損ねる。肉体とセットで存在し、生まれてくる際に、肉体とエーテル体を自らの意志で選んで生まれてきたとされている。シュタイナー教育では、エーテル体の歪みを修正しポジティブな知性へと繋げるワークが含まれる。死ぬと失われる。

 こころ:【アストラル体】 目に見えないが、感じ取ることはできる。いわゆる意識活動。作業台(机)に例えて考えられる。アストラル界(睡眠時)にアクセス。遺伝とは異なる本当の自分が表出する。ポジティブ⇔ネガティブ(問題は、攻撃的感情的トラウマ→免疫系疾病を引き起こすことがある)。頑張れる⇔頑張れない。前世の自分が、誕生後、無意識で少しずつ蘇り(前世の自分の復活、コザール体との連携)、さらなる進化が加えられていく。ただし、悪くなるのは簡単、良くなるのには努力が要る。アストラル体は汚れやすい性質がある。心の歪みには、ポジティブな知性が必要。一時的な現世修行上の魂なので死ぬとアストラル界(本来超ポジティブな世界)に溶け込んでいくが、現世への未練が強過ぎて、それを拒否すると幽霊になる。

 無意識:【コザール体】 目に見えず、感じ取ることも難しい。ビデオカメラ(録画記録情報)に例えて考えられる。無意識で思わず取ってしまう行動パターンや、何度も繰り返されてしまう悪癖など。コザール界(アカシックレコード:その人のこれまでの歩みの全記録)に無意識でアクセスしている。カルマ(業)ともいう。スピリチュアルな能力を鍛えた者は、アカシックレコード(別名、「人類の魂の記録」、「神の無限の記録又は図書館」)の閲覧が可能となる。悪霊もアカシックレコードを閲覧できるので注意が必要。死んでも全く失われない情報。

 超意識:【メンタル体】 目に見えず、感じ取ることも難しいが、黙想等で真理を強く求める時など、ふと意識下に飛び出してくることがある。神殿に例えて考えられる。メンタル界(前世を含めこれまでに培ってきた英知)にアクセス。メンタル体は、さらに守護霊とアクセスして高めることができる。悪霊が触れることのできない聖なる領域。死んでも全く失われない情報。

 ※あとは、それぞれの霊界(○○界)に意識を集中させる(チューニングする)・イメージとして描く練習をすれば、スピリチュアルな能力が獲得できるとされている。


 病気とは、運命のいたずらでも神の罰でもなく、霊的成長の糧となるものであると考えるべきなのでしょう。子どもの魂は、自分の成長のために親を選んで生まれてきているのです。親子とは、重要な絆であり、子どもは親の助けが必要なのです。もちろん、親ではない助けでも良くなるケースも無くはないのですが、無意識(先天的な)心に「良くなりたい」という気持ちが多く詰まっている子でなくては良くなることが難しいと言わざるを得ません。

 キリスト(B.C.4頃~A.D.30 キリスト教の開祖)は、病気で苦しむ人を癒す前に、必ず次のような質問をしています。「良くなりたいか」と。そして、「良くなりたいです」と答えた病者の病気を奇跡的に治した後で、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」という言葉を添えています。このことはとても重要です。キリストにもできないことは、私たちにもできないからです。「良くなりたい」と思わない人を良くすることはできないのです。そうであっても、私は預かっているお子さんに対しては、預かっている限りにおいて、良くなることを信じ続けることを諦めないようにしています。


【教育によるアプローチ】
 「良心(アストラル体)の向上」→「エーテル体(生命力)の向上」→「能力の向上」
(※教育とは、良心を育てるものでなくてはならない。)


【西洋医学の限界】
 西洋医学は、目に見えることに関しては素晴らしい進歩を遂げていますが、目に見えないことに関してはまだまだ遅れていて、何でも薬に依存しやすい傾向があります。

 例えば、ストレスにより、つまりは心因性の原因により声が出なくなるといった症状があります。これは、レントゲンにもCTにも映りません。血液検査や、尿検査でも異常を見つけることができません。こうなると医師でもお手上げとなってしまい、あちこちの専門医をたらいまわしにされたあげく、長い期間症状が良くならないということは、よくあることです。的外れなわけなので、医師から処方された薬も全く効きません。肉体の疲労と魂(心 / 精神)の疲労は別物といえるのです。

 見えない病に対しては、精神科医が専門といえますが、多くの精神科医は、この目に見えない症状を訴えてくる患者に対し、休息と薬で対処しています。一時的休息も効果的とはいえますが、それだけでは根本原因を解決してはいません。特に薬に関しては、かなり問題があります。服用している間に、アファメーション(リラックスした状態の中で良心を引き出すポジティブな言葉を繰り返し 繰り返し、口にすることで潜在意識にまで落としていくワーク)を行うなどして、「良心の修復(物の見方を変える)」→「エーテル体の修復」→「肉体の修復(病の克服)」と進めていき、薬の服用を止められるようになることが理想的なのですが、そうでない場合、薬が強くなっていくだけであり、ついには肉体がボロボロになってしまい、ついには死に至るといった危険性さえあるのです。


③ 肉体     → 御する → アートマ―(精神人間)の進化 ※最高位の進化
② エーテル体  → 御する → ブッディ(生命精神)の進化
① アストラル体 → 御する → マナス(精神自我)の進化

 ※①を良くすることで、②が良くなり、②が良くなることで、③が良くなる。
 ※エーテル体を修復することなく、本当の意味で肉体が修復されることはない。


【輪廻転生について】
 私はクリスチャンなので、これまで輪廻転生に関しては否定的に考えてきました。私には、イエス・キリストによる確かなる奇跡の証を持っています。キリストの価値を下げるようなことには決して加担はできないという強い思いがありました。しかし、シュタイナー教育の研究をするためには、輪廻転生は避けては通れない考え方だったのです。

 釈迦(B.C.463頃~B.C.383 仏教の開祖)は、輪廻転生を問題視しなかったと言うと意外に思われる方も多いと思います。しかし、佛教大学教授の並川孝儀氏の論文『ゴータマ・ブッタ考』(大蔵出版)によると、最古層の仏典では、輪廻転生を問題視していないのです。釈迦は、それまでのバラモン教の教えであるカースト制度による差別から人々を解放し、すべての人に平等で、学びある人生を歩めるようにしたかったのです。しかし、釈迦の死後、厳しい迫害の中で背教してしまった弟子たちによって、以前のバラモン教の教義である輪廻転生を付け加えてしまったというのが真相なようです。

 イエス・キリスト(B.C.4頃~A.D.30 キリスト教の開祖)も、輪廻転生を問題視しませんでした。生まれつき盲目の人について弟子たちは「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と質問したのに対し、キリストは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と答えました(ヨハネによる福音書9章1節~3節)。キリストは、ユダヤ教による選民思想から人々を解放し、すべての人が差別なく学びある人生を歩めるようにしたかったのです。キリスト教が愛の教えと言われているのは、輪廻転生を問題視しなかったことも大きいのだと考えられます。

 両者とも、その時代背景から人々を差別から解放するために輪廻転生を問題視しないことで教えを説いているのですが、現代は、その時代とは明らかに違ってきています。現代は、自由に学問のできる時代にあり、釈迦やキリストの教えをしっかり踏まえた上で、その価値観を下げることなく輪廻転生について考えられる時代になってきていると考えられます。


 最近出版された本を購入したのですが、実に興味深いものではあります。池川 明著『前世を記憶する日本の子どもたち』(ソレイユ出版)というものです。これは、NHK BSプレミアムで取り上げられて大注目されたもので、産婦人科医が前世(=過去世)の記憶を語る子どもたちについてまとめたものです。これを読むと、輪廻転生に対しかなり信憑性が感じられるようになることでしょう。


 まずは前世の存在の証明については、野生の動物たちで考えるとわかりやすいかと思います。

 英国諸島、マン島のミズナギドリは、自分たちのひな鳥をあとに残して旅立ってしまうため、ひな鳥は自力で飛行を習得し、さらにはどこに向かったか分からぬ筈の親鳥を追って、ブラジルまでの膨大な距離を旅する習性を持っているといいます。

 このミズナギドリは、前世も、そのまた前世も、ミズナギドリだったとしましょうそうなると前世について「無意識で思い出す」という作業はたやすく出来ることでしょう。なにせ、生活スタイルは、ほとんど変わらないのですから。同様に、ネコはネコ。イヌはイヌ。人間は人間に生まれ変わると考えます。イヌから人間ですと、この無意識についての証明が成り立たなくなってしまうからです。

 人間に関しては、前世と現世では時代背景が大きく異なります。例えば、クラシックピアノの才能のようなものならば、時代を超えて「無意識で思い出す」という作業が割とたやすいのかもしれません。多くの人が時間を掛けて猛練習しなければマスターできない難しい楽曲を、わずか数時間の練習だけで出来てしまう人が実際にいるからです。しかし、そういった例は、むしろ珍しい方であり、多くの場合、前世とは言葉が異なり、文化が異なり、生活スタイルが大きく異なっているわけです。ミズナギドリほどに、無意識で思い出せる情報には成り得ていないと考えられます。

 私たちは、来世の自分が、今の自分に意地悪されないためにも、「無意識で思い出す」ことを重要視し、無意識を浄化すること、つまりは魂を進化させるための修行に励まなくてはならないと考えるべきなのかもしれません。


 私の塾生で、インターネットをやっていて、年内に人類が滅亡するという予言の言葉を見つけたらしく、そのことで受験生として大切な時期に勉強意欲を失ってしまいました。その結果、志望校には入れず、3ランクも落とした高校に入ることになりました。その後、彼は心を入れ替えて勉強に取り組み国立大学の教育学部に現役で合格しました。

 彼のような過ちを犯さないために、こんな見方があっても良いような気がします。輪廻転生は、地球に限ったことではないという考え方です。例えば200万光年離れたアンドロメダ宇宙には、人間に近い高等生物が存在する惑星があると仮定します。宇宙船では、200万光年離れた惑星に到達することなど絶対に不可能ですが、死後の霊体なら短い時間で簡単に到達できると考えるわけです。もしかすると、すでにこの世において、アンドロメダから転生してきている人間がいて、私たちをリードしてくれているかもしれません。ですから、仮に核戦争によって人類が滅びることになるとしても、巨大隕石が衝突して、人類が滅びることになるとしても、私たちの魂の修行の場が失われてしまうということは全く有り得ないと考えるわけです。何といっても創造主である神が存在する限り、私たちがそういった不安を抱く必要など、どこにもない筈なのですから。

 教育によって、未来を担う子どもたちの心を不安から安心へと変えていき、「何があってもだいじょうぶ」と考えられる柔軟でポジティブな心を養っていくこと。そして、そのような教育が世界に広がっていくことこそが最も有効な平和活動なのだと私は信じてやみません。






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