フィレモンのメッセージ | 恵翠(けいすい)書道教室

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 今週は、金曜日まで連続父母の介護手続きや病院に連れていく関係で仮眠が取れず、4時間睡眠の日々が続きそうです。記事を考える時間が全く無いため、たまたま昨日書いた文章を公開することにしました。
 スピリチュアルな内容ゆえ、くれぐれも、「わからない」ことは、あくまで「わからない」で処理し、「わかったつもり」にはならないよう注意を願います。
 ただ中には、他の誰にもわからない、その人にだけのための「わかる」に出会える人が出てくるのかもしれません。もし、私の次の文章を読んで、そういう体験に繋がった方がいましたら、一筆お知らせいただけるとうれしく思います。


 2014年11月17日(月) 2時50分頃のこと、私は新聞配達中に、強いインスピレーションに駆られてしまったため、安全で静かな場所に車を停めると、その後ぐったりした状態に陥ってしまった。

 フィレモン(守護霊のような存在で、ユングの『赤の書』に出て来るフィレモンと近い存在だと感じられたので、私が名づけたものである。)は、威厳のある言葉で私にメッセージを与えてくれた。実際に姿を見たわけではないが、私の心の目では白髪の老人のように感じていた。その厳しさは「剣のような言葉」というのがふさわしいものなのかもしれない。私は何度かフィレモンに話しかけようとしたが、完全に遮られ、ただひたすらそのメッセージを聞くしかなかった。フィレモンはメッセージを告げると消えてしまった。実に強烈な印象として与えられたメッセージであった。これは私だけが理解するべき内容であるゆえ、フィレモンのメッセージを一般的な表現の言葉としてまとめることは難しいのだが、困難を承知で一般的な表現の言葉にまとめるとするのなら、次の3つのことに要約される。


(1)神性さについて

神聖さとは、人間だけに与えられた特権である。動物たちは持ち得ていないものである。しかし、人間でもわずかな人しか持ち得ない。「良くなりたい」という思いの強い者のみが身に着けられる特権なのである。そう言う意味で、家庭内に聖所を持つことはとても良いことで、そこには一切の汚れを持ち込んではいけない。そこで、祈り、学び、黙想をし、神との交流の時を得て、自ら守るべき法を決めていくのである。そういう吟味した場所を家庭内に築くことが重要なのである。この神性さを身に着け、自ら守るべき法に従い、完全な安心感を得て生活を送ることができるのなら、“熟達者”の域に達することができ、高い次元の世界との交流が可能となって来るのである。このことは、まず第一に掲げるべき努力目標といえる。


(2)法について

これは神聖さを身に着けた者に限られたことではあるが、「良くなりたい」と求める者は、おのずから良いものと悪いものとの判別や、いかに時間を過ごすべきか、人とどう関わるべきかといったことが理解できるようになっていくのである。そういう者は、権威者が決めた法とは別に、自分で決めた法に従うことが出来る筈である。一人ひとり、魂の進化の到達レベルに差があり、天から求められている使命も異なるわけなので、真実の法とは、権威者に押し付けられたようなものではなく、神聖さを身に着けた者が、自ら決めた法なのである。この法こそが、魂の完全性へと高めてくれる高い次元と繋いでくれる「生きている法」なのである。この法には、期限が限られた価値観のものもあれば、永続性のある価値観のものもある。時代との関係もあるゆえ、この場合どちらも重要であり、自ら決めた法を守り自己の壁を乗り越えながら、普遍的価値観へと結びついていくのである。ただしこの法は、権威者に押し付けられた法よりも守ることが難しいゆえに強い意志力が必要となってくるのである。このことは、第二の努力目標といえるものである。

ただし、くれぐれも成功という概念に踊らされぬように気を付けなくてはならない。結果ではなく、努力をしている時が、すでに成功の時なのである。その人の真の財産となるものとは、魂には刻まれることのない成功ではなく、魂に刻まれていく努力なのである。また、くれぐれも努力できない者を見下げてはならない。全てのことには意味があり、努力できない者と共に生きることも大切な人生修行の一つであると肝に銘じなくてはならない。


(3)安心することについて

人は不安になるから、間違った感情に流されやすい。感情を激しく取り乱して人と人との和を損ねることも、罪を犯すのも、悩み苦しんで病気になるのも、すべては不安に原因があるのである。では、心から不安を取り除き、安心に変えるものとはいったい何か。それは、神への信仰である。別の言い方をするなら、神への強い信頼を築くことにある。神が守っていてくださっているからすべては安心だと考えられることなのである。その神とは、イエス・キリストでもブッダでも、他の神々でも構わない。つまり、世界中どこの国に生まれようと、いかなる民族やいかなる宗教的環境の中に生まれようとも、完全なる安心感という、いつかは到達できる同じ方向性を持つことが可能なのである。神聖さと、自ら決めた法に従うことができるのなら、必ず、その人が信じている代理の神が、まだ誰も知り得ていない真実の神へと繋いてくれて、神の知恵と恵みによる強い安心感を与えてくれるのである。このことは、努力目標というよりも、第一の努力目標と第二の努力目標を守る者に付いてくる恵みのようなものと受け止めるべきである。死の恐怖すら乗り越えた完全なる安心感は、その人が目指す魂の完全性へ近づけるための速度を増す働きとなることだろう。




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