「出会い」/洋紙


 

 

明け方、目の前の川の中を鹿の親子が歩いているのを見た。

昨日の明け方も見た。同じ方向に同じ鹿の親子。。。。

 

「これってデジャブ?」

と思った拍子に、ひょっとしたら私は何度も何度も

この人生を繰り返し経験しているんじゃないか?と思った。

 

ほら、輪廻転生ってなんども生まれ変わるけど、

ある時はインドの隠遁者、ある時はユダヤの行商人、ある時は土佐の馬喰、、、という風に、

その都度違う生き方をしていると思っている。

 

そう思うと、いろいろ経験してみるのもええな♪とか思ってしまうが、

ひょっとしてその生まれ変わりってのは、

この「つくし」という名前の主人公の人生を

えんえんと繰り返し生きているだけだったとしたら、、、、。

 

その都度、前の人生をすっかり忘れて、また「おぎゃあ」と生まれてくる。

そして同じ名前をつけられて、同じ親の元に育ち、同じ環境下で生きて死ぬ。。。

 

ゾワっとする。

 

うわ。ヤバイ。こんなこといつまでもやってられねえ。

輪廻転生にロマンを感じていたものがずるっと落ちた。

 

 

 

 

 

コースは「脚本はすでに書かれている。

あなた方はその脚本通りに演じられてすでに撮り終えられている映画を

再生ボタンを押してみているだけだ」と言う。

 

つまり私は「つくしの人生」という映画を

何度も何度も再生して見ているだけなのではないか。

 

だから時々デジャブがくる。

「ん?これ前にも見たような。。。」

 

すると自我がささやく。

「ちゃうちゃう。初めてさ。全く新しい体験しているじゃないか!」

自我はずっと私たちにこの映画の中の主人公であってほしい。

まさかそれを作り上げたのが私で

いつの間にかその中に埋没して、

監督側ではなく、「主人公」になりきっていただけなのだと気づかれては困るのだ。

自我が自我としてそこに存在できなくなるから。

 

 

 

ブッダは「この世は夢である」と言った。

 

先日仏教を勉強する人と話をした。

仏教を学ぶと難しい複雑な言葉が多く出てくる。

いつの間にかその難解な言葉に捕らえられて、

本当にこれは夢であるのか、

それを本当に知ることはできるのか?

それを知識としてだけではなく、

体験としてそれを「知る」ことはできるのかどうか。

知識が多すぎて、学問としてそのことを学ぶところで

とまってしまうのではないかと思った。

 

コースの中のイエスがいうことと、

ブッダがいうことは全く同じだ。

 

ぐるぐると同じ人生を繰り返していることに気がついたブッダ。

その輪廻の歯車から抜けろといった。

そこから抜けるには、

「ん?これはなんかおかしい、、、」と気がつくところから始まる。

 

同じことで悩んでいる自分、

同じ問題がいつもやってくること。

 

「そんな苦悩が人間ってもんさ」といって自分を納得させ、

その先へと進むための考えを止めてしまわないこと。

 

小さななにげないほころびの中に、

これが夢であることのヒントが散りばめられている。

 

「繰り返すだけの人生」ではなく、

「夢から覚めるための人生」にしたい。

 

そう思うと、一瞬一瞬がすべて教室になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和紙で制作した作品のオンラインショップができました

 

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです