わたしの器とダンナの器(真ん中手前)

 

 

「わかったよ!こういうことだったんだ!

俺、ずっとこんなふうに考えていたんだ!

いや、確かに君に何度も言ってもらってた。

だけどピンとこなかったんだ。

でもふと今日わかったんだ。

うわ~そういうことかー。」

 

ダンナはボリボリと頭をかいて、空を見つめていた。

その顔は喜びと驚きに満ちている。

 

こういう気づきの発見を聞くたびに、ああよかったと思う。

本人がはっきりと気づくまで、言葉はただの空耳アワー。

 

自分が意識にも上らせないほど当たり前のように考えていたことは、

真実ではなく、ただの思い込みだった。

そのことに気がつき始めると、

さらなる他の思い込みに気がつき始める。

 

 

 

言葉は、単なる単語、音でしかない。

しかしその言葉を本当に本人が「理解する」瞬間が訪れる。

「言葉が入る」と言ってもいいのかもしれない。

 

その時、その人の心はパッと広がる。

ああ!そういうことだったんだ!

 

 

 

これは私たちが学校や社会で聞いて覚える知識とは違う。

勉強って、知識を入れることだと思ってきた。

確かにこの物理的世界においては、「知る」ことが大事。

知識はあればあるほどいいらしい。

 

しかし本当のところは、この物理的世界の知識は真実の知識ではない。

この世界のルールを覚えてうまく生きるための知恵。

残念なことにその知識が完全に整って完璧になることはない。

あろうことか知れば知るほど矛盾が露呈してくる始末。

 

 

 

だが冒頭の知識は自分を解放していく。

自分の中の本当の自分とのつながりを見つけていく作業なのだ。

 

探求とは、愛を見つけることではなく、

愛を覆い隠している、

自分の中にある自分を傷つけてきた破壊的な信念を

見つけ出していくことだった。

 

その破壊的な信念に本当に気づいたとき、

そこに罪悪感はない。

ああ、これは無意味な信念だったのだ!とふっと荷がほどける。

 

 

この世界はほとんど生まれた時から、

自分にダメ出しを出され続ける。

 

こうであってはいけない。こうでならなければならない。

こうあるのが正しくて、今そうなっていないことがいけない。

今そうなっていない。だからダメなんだ。

 

コマーシャルやSNSを見て感じないだろうか。

「そのままじゃあなたダメです!」

よくなるためにはこれを買ってとか、

こうやって運動してとか、

禁欲的な食事をしてとか、

そんな情報ばっかりじゃない?

 

あなたそのままではダメなんですよって洗脳されまくってる。

そう言われ続け、そしてそうでない自分を呪う。

 

その破壊的な洗脳、

自分自身に与え続けてきた無意識レベルにまで隠されてきた破壊的な信念に気づいて、

一つ一つその重荷を降ろしていく。

 

 

そうしてこの世界に対するすべての考えが、

 

「この世界は実在する」

 

という自我の誘惑そのものなのだったのだと教えられる。

 

 

 

 

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「宴」和紙、水彩

 

 

 

やる人がいない町内会の会計。急遽私にお鉢が回ってきた。

しゃーない。誰もやらんのやからやったるわい。

 

先日の役員会で町会費を集計。

慣れない手つきでお札を数えていると、

「金を扱ったことのねえ奴の手つきだな」

と、口の悪いオヤジが私の横でぼやく。

 

罪悪感が頭をもたげる。

「やばい。簿記もやったことのない私が、会計なんてやっていいんだろうか?」

ちゃんとしなきゃ病が湧いてくる。。。

だが次の瞬間、その罪悪感をぽいっと捨てる。

 

 

一昨日の京王八王子駅近くの「えきまえテラス」での陶器出店の時。

「明日は一日中雨だけど、明日、午前中だけでもやるか~」

「先生。私はやめときまーす」

先生のやりたそうな空気を読まずに思ったことをはっきり言う。

 

 

心の中は常に罪悪感が渦巻いている。

どう思われる?

こんなことやっちゃったら後でバチが当たる?

これ食べちゃったら太る?

これは体に悪い食べ物?

やっても、そしてやらなくても、バチを恐れる。

 

コースの中にある言葉「罪悪感は罰である」

 

罪悪感があるから、罰を与えるんではなくて、

罪悪感を持つ、それがすでに自分への罰なのだ。

 

罪悪感は、持った瞬間に苦痛がそこにある。

それこそが罰だった。

 

 

 

自分がいかに罪悪感で世界を怖がっていることか。

それを知ることは、この世界からの解放への道だ。

そのために自分の心を見る。

そこからしか始まらない。

見えている世界を変えることではない。

見えている世界こそが、自分が信じていることが結果として現れている(見えている)世界だから。

だからその原因を見る。心という原因を。

 

 

 

 

私たちの行動の一つ一つは、よく見ると罪悪感が動機になっている。

息をするたびに罪悪感が湧いてきている。

この世界は罪悪感でできている。

 

そしてそれを自分の心を見るために利用する。

冒頭のオヤジの言葉は、私のちゃんとしなきゃ病を意識させてくれた。

オヤジが悪いわけではない。

自分の中にそんな罪悪感があるよと教えるためにその言葉を発してくれたのだ。

 

なぜ教えてくれたのか。

それはあなたが罪深いからではない。

あなたには罪などないということを思い出すためなのだ。

 

 

自分が罪悪感を持っているということを意識しない限り、

「それはない」というところには行けない。

知らないうちに消えてくものではないから。

 

この自分が持っている罪悪感を一旦自覚し始めると、苦しい時期を過ごすことになる。

自分がどれだけ恐れているかを知り始めるからだ。

 

しかしそこを通り抜けて、別の道へと歩む。

自分が作ったお化け屋敷を解体していくのだ。

 

自覚された小さな一つ一つの罪の意識。

それはここに生まれてきた時に既に持っていたもの。

でもそれは本来の私たちのものではない。

 

それをそっと手放していこう。

もういりませんと、空に渡していこう。

 

そうして少しづつ薄い罪悪感というベールを剥がしていくうちに、

時々恩寵という名の陽の光がさっと差し込む。

ああ、こっちなんだ。。。と確信が増えていく。

 

その違いは心の感覚ではっきりとわかる。

ぎゅっと苦しいか、ほ~っと緩んでいくか。その違いを認識する。

 

私たちは一人ぼっちではない。

私が一つほどけるごとに、この地球のどこかで誰かがほどけていく。

 

罪か。愛か。

 

どっちを選ぶ?

 

すぐ横で、何かが、暖かい思いで、見つめてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

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海沼武史写真作品「小仏川」


 

 

先日、京都から夜行バスに乗ってくうが訪ねてきてくれた。

その理由は、写真家海沼武史の大量の作品群をどうするかという話し合いのためである。

 

高級な額に入った作品は、二階の部屋の半分のスペースを占領している。

そのうちの10分の1を箱から出して眺めながら一言、

「もったいない!」

 

そうなのだ。実にもったいないのだ。

このまま老いさらばえて死んでいけば、この作品群は灰になる。

てか残されたものはどうすればいいのだ?

 

朝も早よから話し合いが始まった。

どうする?

どうやって広める?

どこで?

誰に?

 

途中、お昼に蕎麦屋の杜々に行って、久しぶりに会った店主としばし団らん。

くうは約10年前までここ裏高尾に住んでいた。

彼女はその時、裏高尾の森で子供達と一緒に「空と大地の教室『つきのわぐま』」という森冒険の教室と英語教室「Coo's English School」を開いていた。

今はそれをさらに進化させた『カシオペア』という名で今度は京都の森と広々とした教室で、英会話も導入し、子供達に美の感性を磨くべく新しい教えを京都でやっている。

 

そして話し合いは午後まで続き、彼女は夕方新幹線で京都に戻っていった。

 

彼女はまる丸一日かけてわざわざ京都からきてくれて、

そして私たちの未来について真剣に考えてくれている。

美味しいお酒や美味しいものをたくさん持って。

これほどの愛の表現はない。

 

「海沼武史美術館」を作ろう!という話も出た。

一回や二回の展覧会では出しきれないほどの量と内容。

彼の世界観はもうすでにそこにある。

その空間の中に一歩足を踏み入れれば、その世界観は一目瞭然だ。

 

 

 

だがその打って出ることがまだ彼の中で踏み出せない何かがあった。

彼の過去の営業についてのトラウマだった。

打って出ても結果が出ないという思い。

どうせ何をやってもうまくいかないという信念。

これが彼の足を引っ張っている。

 

しかし過去はもうここにはない。

ただその信念だけがあるだけだ。

傷ついたという思いがあるだけなのだ。

 

私たちは心を体と同じように思っている。

体は傷つけることができるから、心も同じように傷つくと。

心のどこに傷がある?

そう思い込んでいるだけなのだ。

過去はここに持ってこれるか?

ただその思いがあるだけなのだ。

 

 

実はこれは私にも言い聞かせていること。

 

現に私も今ギャラリーにガンガン営業をかけている。

断られまくりの日々だ(笑)。

 

イラストレーターだった頃のあの辛かった営業の日々を嫌でも思い出させられる。

何の反応もない、スルーされる日々。

あの惨めさ、ひとりぼっち感、お前はここにいる価値がない、

無能を宣告される感覚。。。

あの傷が再び。。。。と。

 

自我が私にささやく。

「お前はここにいる資格はない」

 

だがもう同じところに行かない。

行かないために、この思いが再びやってきているのだ。

その思いが本当ではないことを知るために。

 

この世界の中で答えを見つけようとしても見つけられはしない。

それがこの水平線上のならわし。

それを越えたところに心を持っていくことが鍵を握っている。

出来事はすべてそれを教えるためにやってくる。

 

この小さな弱い体の中に入っている私ではなく、

とてつもなく巨大な何かが本当の私であると完全に知るために。

 

 

 

濃厚な1日だった。

彼女の巨大な愛の思いが私たちを包み込んでいた。

 

彼女はまさに、私たちの真の自己がなんであるかを

喜びを持って伝えにきてくれたメッセンジャーだったのだ。

 

くう、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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庭に咲いていたホタルブクロを制作中

 

今年は雨が少なかったので、蛍は少ないんだろうなと思っていた。

だが蛍はいつもより多く飛んでいた。

 

真っ暗な山を背景に蛍が乱舞する。

水辺に戯れる光があるかと思えば、

高く舞い上がって杉の木の中で飛び交う光たちもいる。

あのフワンフワンと現れては消える光を見ると自然と心に喜びが湧いてくる。

 

川のせせらぎと、カジカの大合唱、そしてかすかに虫の声が聞こえ始める。

蛍は季節の境目にいる。

カジカから虫への橋渡しだ。

山の近くにいると、季節の変化を音と目とそして香りで確認する。

 

大合唱の中で私の心にもう一つの音があった。

それは藤井風くんの新曲Comets +Gold。

彼の所作はあまり好きじゃないが、曲は好きだ。彼の所作はあまり好きじゃないが、曲は好きだ。

昨日は1日中そのフレーズが頭に流れていた。

 

 

 

三鷹にある出光美術館に行ってきた。

駅からバスに乗って指定のバス停に着くも、どこにも美術館らしきものがない。

何人もの人に尋ねならがやっとついた。

美術館といっても中近東文化センターの一角にちょこんとあるだけだった。

 

たった25点の展示だったが、私にとっては見応えがあった。

器の説明も焼き物をやり始めたおかげでよくわかる。

裏に回って高台の付け方まで見れたのは面白かった。

 

ポスターにあった取っ手がついた可愛らしい織部草花文手鉢は、

実物を見るとちょっと汚くそんなに魅了されなかった。

だが志野山水文鉢には圧倒された。

「欲しい!」と思った(笑)。

この器にどんな料理を入れようかとワクワクした。

図録もなく写真も撮れない。しばらく佇んでしっかり目に焼き付けてきた。

 

帰りも駅までのバス停が見つからず、またしても何人もの人に聞きながらたどり着く。

それにしても人は優しい。たくさんの人に助けられてちょっとした旅を味わった。

 

 

ラーメンどんぶりの絵柄(笑)

 

 

先日までは20匹くらいいた蛍たちも、昨日はその三分の一に減っていた。

こうして季節は巡っていく。

 

暗がりの中で目を閉じる。

川の音と、カジカの声と、時々虫の声。

そして頭の中にあの曲のフレーズ。

私を癒してくれる。

 

それでいいんだよ、あなたはそのままでと。

 

神が私に語りかけている。

私を包んでくれている。

 

涙が溢れてくる。

喜びに溢れてくる。

 

 

 

 

 

 

 

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「コーヒーカップの絵付け」


 

 

放蕩息子のことが頭に浮かんだ。

 

王の息子は財産分与でもらった金を持って旅に出て全財産使い果たし、

食べるものもままならなくなった。

このままでは死んでしまう。父の元に帰ってこう言おう。

父よ私はあなたに対して、天に対しても罪を犯しました。

私はあなたの息子の資格はありません。

どうぞ私をを雇人の一人ににしてくださいと。

そうして父の元に出かけたら、

まだ遠く離れているのに父は彼を認め、

走り寄ってその首を抱いて接吻した。

さあ、早く、最上の着物を出してこの子に着せ、指輪を手にはめ、履物を足に履かせなさい。

また、肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて楽しもうではないか。

この息子が死んでいたのに生き返り、

いなくなったのに見つかったのだから。

息子が帰ってきた!さあ皆で祝おう!

 

しかし息子は自分のおかした罪に苛まれ、

「父よ。私はそんなことを父にしてもらう資格などありません。」

と言って父の喜びを受け取ろうとしない。。。。

 

 

これ、私だ。

 

前からその話は知っていた。

しかし今ほどそれをリアルに感じることはなかった。

 

父/神から離れたいと思い、一人で生きることに決めて今まで頑張ってきた。

そして文無しになって、父の近くに帰ってきながら、

父の豊かさを受け取ろうとしない。

 

父よ。私にそんな資格などありません。

どれだけ父を裏切って、どれだけ自分一人で生きて来ようとしたか。

その結果がこれです。私はこれからもその罪の償いをしていきます。

 

だが父は私の「罪」に何のとがめもなく、まるでなかったかのように振る舞う。

ただただ私がここにいてくれるだけで最大の喜びなのだ。

そしてその豊かさを渡そうとしている。

 

しかし私は「罪」を償おうと、自ら辛い思いを選ぶ。

ちっこいところでちまちまと生きる。

私にはこれだけしかありませんので。。。

私の力はこれだけなので。。。

すみません。放っておいてください。。。

 

 

これが分離だった。

 

父とは一緒になれません。

兄弟とも一緒になれません。

なぜなら私は罪深いので。。。

 

 

 

 

私は直径20センチくらいのちっちゃなクリスタルボールの中を覗き込んでいる神の子だった。

 

クリスタルボールの中が私の唯一見える世界だ。

その世界がすべてだった。

そこには自分の体も世界もある。

それしか知らなかった。

それしかないと思っていた。

だがその中は罪/分離の世界だった。

 

そこから一瞬離れる。

するとそのクリスタルボールの外は、即、神の世界だった。

全てが輝く光しかない豊かな神の心だった。

 

こっちが本当だった。。。!

唯一実在するものだ。

私はただ分離を覗き込んでいる、

その中に没頭しているだけだったのだ。

 

錯覚を皆置き去りにする。

「自分の罪」を置き去りにする。

父はそんなもの見てはいない。

 

 

 

私は私にすでに与えられた豊かさを持って歩こう。

与えたものが与えられる。

 

罪を与えれば、罪が与えられる。

愛を与えれば、愛が与えられる。

 

十字架にかかるか、

自由の中にいるか。

 

心は活動的に常に動いている。

十字架刑か、自由か。
この今、この瞬間の、

一瞬一瞬が、私の選択にかかっている。

 

 

 

 

 

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