「ふもと」/和紙、水彩

 

目を覚ました時、静かだった。

寝る時いつもカーテンをわざと30センチぐらい開けているから、

そこから緑の風景がのぞいている。

 

起き上がってカーテンを全開し、また布団に戻る。

目の前に圧巻の緑。圧巻の静けさ。圧巻の安堵。

 

そこに世界の営みはなかった。

ただ美しい風景があった。

 

しばらくして心の中にこの世界の営みの感覚が戻ってきた。

私はこの世界の住人。あれをしてこれをして。。。

 

その感覚が戻ってきたとき、時間というものがこうしてあるんだと知った。

 

あの時、私は「今」にいた。

「今」というものは、時間の中になかった。

 

以前は今というものは、過去、現在、未来という、一本の線の中にあると思っていた。

そしてその現在を押し広げようとしてきた。

しかし押し広げることはなかったのだ。
その線上に「今」は存在しない。

 

今は時間の外にあった。

 

例えていうなら、十字架の横線が過去と未来という時間。
そして縦線が今だ。垂直の流れ。

あの時私は「今」に引き上げられていた。

 

「今」から時間と空間を眺め、「美しい」と感じていたのだろう。

 

 

時間はひゅんひゅんと流れている。
その時間の中に空間がある。それらは常に変化していく。

ひゅんひゅんと回っている時間と空間を後にする。
どんどんそこから離れていくと、地球という丸い球体が見える。
そこで私たちは日常のあれこれを営んでいる。
しかしそれを「今」から眺めていると、
やがて小さくなっていって、小さな点になり、すっと消える。
そんなイメージ。

 

 

時間はどうしてできたんだろう。

 

テキスト第5章Ⅵ「時間と永遠」2段落目

「罪悪感という感情こそが、時間を存続させているものである」

 

まさにあの時、私の中に罪悪感は全くなかった。

人間の営み、生活というものが消えていた。

そこには喜びと平安があった。

 

 

 

時間、空間、罪悪感、恐れ、闇、自我。。。

すべて同じものだったのだ。

 

 

 

 

 

「カラスウリ」/和紙、水彩

 

 

じつは展覧会期中、ずっと頭を悩ませていたことがあった。

 

絵を見て感動してくれている人々を見ながら、

「ひょっとして、、、買ってくれないかな、、、?」

という思いがチラチラと湧き上がってきて、

その思いのせいで、純粋に絵を楽しんでくれていることを

100%私も楽しめきれなかったことだ。

 

心の中を逐一見ていく訓練をすると、どんな小さな思いも見逃せなくなる。

あ、、、今、私、こう思っている。

くっ、、、、。なんてセコイんだ、私。

ちっけえな~~。。。

この思いさえなければ、私も一緒に本当に喜べるはずなのに、、、!と。

 

お金の問題。

これはずっと私の心を悩ませ続ける。

 

毎晩家に帰ってからずっとそのことを考え続けた。

 

お金を得るということは安心を買うということだ。

そして絵が売れるということは、

その絵に対して価値を置いてくれているということだ。

 

だから絵が売れる作家は評価されて、

絵が売れない作家は評価に値しない。

 

だいたい世の中は、、いや少なくとも作家自身が、

そういうモノサシで自分自身や、他の作家たちを図っている。

 

ではバンバン絵が売れる作家に対して評価しているのかといえば、

実は逆にケーベツしていたりする(どっちやねん)。

 

ではどういう作家がいいのか。

ほどよい売れ方をする作家。。。。

 

おい。その「ほどよい」って、どこらへんに基準があるねん!(笑)

 

というぐるぐる回りの結果にしかたどり着けなかった。

 

 

 

で、こっからはコース的な話。

 

お金で安心するということは、ずっと恐れの中でいることを選択しているということだ。

絵が売れて安心するということは、ずっと恐れの中での安心を欲しているということだ。

 

恐れの中で安心?そんなものあるのだろうか。

 

他人とは分離した自分という肉体を維持するためのお金、

そして個のアイデンティティを主張するための絵。

絵とお金はそういう分離を象徴し、魅了する世界。

 

絵が売れて欲しいとは、自分で誤って創造した世界(幻想)を重要視している。

私は自分で作った恐れ、幻想を選び、それを握り続けている。

 

「あなたはそれをこれからも握り続けていたいのか?」

 

そう問われていることに気づき、ハッとした。

 

 

いかに自分がこの世界を重要に思い、深刻になり、

リアルにしているのかをお金問題でもはっきりと見せてくれていた。

 

じゃあ、深刻にならずに、ハッピーハッピーでワクワクしてたらいいんだという風に、

切り替え、、、られるわけがない!

 

そんなふうに自分の心を隠ぺいしたくない。正直でありたい。

 

絵が売れて欲しいという恐れがベースの思いを私は持っていることを正直に見、

それを光のもとに渡す。

 

そういうリトリートであった。

 

 

 

愛で描く。

それで私の仕事は終わっている。

 

そのあとのことは、私のおよび知らないところで、

ちゃんと回っているようだった。

 

そんな現象にあぜんとする。

一つ一つ、ひとりではないことを教えられる。

 

 

 

絵を買ってくださった方々、

買おうか買うまいかと、何度も足しげく通ってくださった方々、

本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

今、新緑がすごい。

 

高尾山の麓の遊歩道を歩くと、緑がこれでもかと私を迎えてくれる。

 

喜びがあふれてくる。

葉っぱのざわめき、足元の小さな草、木の幹、何を見ても嬉しい。

何を見ても幸せ。森全体が私を祝福してくれる。

 

緑に覆われた狭い道で、通りすがりの人が道を譲ってくれる。

お互い譲り合っていて、互いに笑い合う。幸せがあふれる。

 

これが私の仕事。喜んで幸せであることが私の仕事。

 

仕事とはお金を稼ぐものだった。

物理的なものを作り、物理的なことをするのが、この世界の営みだと思ってきた。

 

しかし本当にあるものは、この今見えている世界ではないのかもしれないと思い始めている。

この世界しか知らなかったが、この世界ではないことの方の大きさを感じ始めている。

しかもその大きさたるや、とんでもないものなのかもしれないと。

 

 

展覧会の間、私は愛を受け取り続けていた。

 

それは見に来てくれた人たちが、私の絵にふれ、その喜びを私に与えてくれていたからだ。

 

この喜びは、一昨年の同じ場所での展覧会の時、初めて感じたものだった。

絵を見て驚く。絵を見て心がわっと広がる人たちを目の前で目撃した。

 

それは「私の絵」という個人的なものを鑑賞して感動してくれるという、

優越感を刺激するものではなかった。

 

そこに喜びがある!その人が喜びに満ちている。

それをただ目撃していた。
その喜びを一緒に共有している!

それは本当に幸せな瞬間だった。

 

 

これまで多数の個展を開いてきたが、こんな喜びになったのは初めてだった。

「いいですねえ~」「素敵な作品です!」

そんな感嘆の言葉にも、当時は受け取れなかった自分を思い出す。

「わたしは評価に値する人間ではない」という思いが、

もらった愛を密かに跳ね返していたのだ。

 

しかし自分の中にある罪悪感が徐々に消えていくにつれて、

人の愛を受け取れるようになってきた。

 

 

愛を受け取るには勇気がいる。

私たちは謙遜という言葉を用いて、愛を受け取ろうとしない。

いや。愛を恐れているのだ。

 

心の奥深くに、「私は罪深いから、愛を受け取る資格などない。

むしろ罰を与えて欲しい。それが罪人である自分にぴったりの処遇だ」と。

 

愛から目を背けていた私が60年近くいたのだった。

 

それが、愛を受け取れば受け取るほど、

自分には愛があったことを思い出し始めた。

 

受け取ると、もともと持っていた愛を思い出す。

そして愛を送れば、もともと持っていた愛をさらに思い出すのだ。

 

愛で見て、愛で受け取り、愛で送り返す。

 

すべてが、愛に満ちていた。

 

 

 

 

「きぶし」/和紙、水彩

 

 

 

10日間の展覧会が終わった。

これまで個展を開いてきた中で、これまでにない大変多くの人々にご来場いただいた。

お忙しい中、わざわざ足を運んでくださった方々に、心から感謝いたします。

 

 

私にとって展覧会は一人リトリート。

非日常の空間に入って、友達や全く知らない人々と毎日出会う。

 

私の絵を見に来てくれている人々と挨拶し会話しながら、

自分の中の心がどう反応しているのかをつぶさに見る。

山から降りて、帰りに寄ってくださった人、これから山に登る人、

和菓子屋さんに貼ってあったチラシを見てきてくださった方々などなど、

ギャラリーにやってくる人々とは違う人との対話。

 

「それで、この中であなたの絵はどれなの?」

「どの先生に教わっているの?」

「何かお手本の絵でもあるの?」

「たいそうなご趣味をお持ちで」

 

例えば絵は習うもの、お教室に通うものという観点から見れば、上のような言葉になる。

しかしこの絵が銀座のギャラリーに飾られていたなら、上のような感想は出なかっただろう。

この庭園ならではの人々との出会い。彼らの言葉にかすかに反応する自分を見逃さない。

 

しかしそれよりもはるかに、絵を見て感動くれている人々の姿に、

私はとてつもない愛をもらっていた。

 

 

期間中ギャラリートークをした。

これは私にとって人の前で絵について話す最大の一人リトリートだ。

たくさんの方々が聴きに来てくださった。

改めて絵について話してみると、大した話は出てこない(笑)。

絵を言葉にすることの難しさを感じた。

日頃私が感じている植物との対話、和紙との触れ合い、散歩道で出会うふとした風景の驚きなど、

それを伝えられないもどかしさがあったが、楽しい時間を過ごさせてもらった。

その時の動画はこちら

 

 

 

 

その夜、布団の中で意識が起き、不思議な体験をした。

 

ギャラリートークにきてくださった人々が心に現れ、

ある一人の人物がはっきりと思い出された。

その人は私を真正面から見ていた。

その人のことを、ああ、私、この人好きだなあ~と思っていると、

すーっと私の中に入ってくるのだ。

 

最初は抵抗したが、入ってくるに任せた。

それをきっかけに次々と人々が私の中に入ってくる。

なんとも言えぬ心地よさに身を任せていると、

そのうちコップやテーブルなど、まわりの物質までもが私の中に入ってきた。

 

不思議なことに入ってくると同時に、私のカラダがだんだん消えていくのだ。

理屈で考えると、入ってくるとたまってくるように思うのだが、

入れば入るほど、私が消えて透明になってくるのだ。

 

それはまるで「私が外に出したもの」を回収しているかのようだった。

ああ、私はこうやって自分が投影したものをうちに戻しているんだと感じた。

 

外に出せば出すほど、(投影すればするほど)、

自分という体が物質感を帯び、自分と他人がくっきりと分かれ、

内に回収すればするほど(受け入れれば受け入れるほど)、

個という独立した自分という感覚は消えてなくなるのだ。

 

遠い昔にかすかに記憶していた、カラダである私はいなくて、

本質である「私」がいることを思い出していた。

 

 

ノンデュアリティで言われる「私はいない」とは、

まさにカラダである私はいないことであるし、

マハラジの言う「私は在る」とは、

本質である「私」しかいないと言うことなのだろう。

 

これらの言葉は矛盾しない。

ここにいるかに見える私とは、かりそめの私なのだ。

そのかりそめの私はいない。

 

存在するのはこの肉体を持った私ではなく、

真に実在する私であった。

 

最初は文字で知識として知り、

そしてそれは少しづつ、体験を通して真実だと教えられる。

 

 

 

 

 

今、展覧会を開催している高尾駒木野庭園で、絵について語りました。
その時の動画をアップしました。

 

下にあるもうひとつのブログに動画をつけてあります。

 

絵の具がわりに使っている和紙の話、日本人の感性、けもの道など、

多義にわたって好きなように語っています(笑)。

1時間ほどあるのですが、お時間のある方は覗いてやってください。

 

展覧会は明日8日(水))まで開かれています。

 

 

つくし作品展』

 

時:2024年4月29日(月))~5月8日(水)

  9時~17時30分

 

場所:高尾駒木野庭園(たかおこまきのていえん)

   東京都八王子市裏高尾町268-1

   電話:042-663-3611

   無休 入場無料