今、新緑がすごい。

 

高尾山の麓の遊歩道を歩くと、緑がこれでもかと私を迎えてくれる。

 

喜びがあふれてくる。

葉っぱのざわめき、足元の小さな草、木の幹、何を見ても嬉しい。

何を見ても幸せ。森全体が私を祝福してくれる。

 

緑に覆われた狭い道で、通りすがりの人が道を譲ってくれる。

お互い譲り合っていて、互いに笑い合う。幸せがあふれる。

 

これが私の仕事。喜んで幸せであることが私の仕事。

 

仕事とはお金を稼ぐものだった。

物理的なものを作り、物理的なことをするのが、この世界の営みだと思ってきた。

 

しかし本当にあるものは、この今見えている世界ではないのかもしれないと思い始めている。

この世界しか知らなかったが、この世界ではないことの方の大きさを感じ始めている。

しかもその大きさたるや、とんでもないものなのかもしれないと。

 

 

展覧会の間、私は愛を受け取り続けていた。

 

それは見に来てくれた人たちが、私の絵にふれ、その喜びを私に与えてくれていたからだ。

 

この喜びは、一昨年の同じ場所での展覧会の時、初めて感じたものだった。

絵を見て驚く。絵を見て心がわっと広がる人たちを目の前で目撃した。

 

それは「私の絵」という個人的なものを鑑賞して感動してくれるという、

優越感を刺激するものではなかった。

 

そこに喜びがある!その人が喜びに満ちている。

それをただ目撃していた。
その喜びを一緒に共有している!

それは本当に幸せな瞬間だった。

 

 

これまで多数の個展を開いてきたが、こんな喜びになったのは初めてだった。

「いいですねえ~」「素敵な作品です!」

そんな感嘆の言葉にも、当時は受け取れなかった自分を思い出す。

「わたしは評価に値する人間ではない」という思いが、

もらった愛を密かに跳ね返していたのだ。

 

しかし自分の中にある罪悪感が徐々に消えていくにつれて、

人の愛を受け取れるようになってきた。

 

 

愛を受け取るには勇気がいる。

私たちは謙遜という言葉を用いて、愛を受け取ろうとしない。

いや。愛を恐れているのだ。

 

心の奥深くに、「私は罪深いから、愛を受け取る資格などない。

むしろ罰を与えて欲しい。それが罪人である自分にぴったりの処遇だ」と。

 

愛から目を背けていた私が60年近くいたのだった。

 

それが、愛を受け取れば受け取るほど、

自分には愛があったことを思い出し始めた。

 

受け取ると、もともと持っていた愛を思い出す。

そして愛を送れば、もともと持っていた愛をさらに思い出すのだ。

 

愛で見て、愛で受け取り、愛で送り返す。

 

すべてが、愛に満ちていた。