ノンモがまだ中学生くらいの頃、ひとりで新幹線に乗って岩手県の花巻市まで行ったことがあります。

 

花巻市は「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」で知られる宮沢賢治の生まれ育った町で、そこには宮沢賢治の生家や教諭として勤めていた農学校、生前によく散歩をしたというイギリス海岸(岩手県の北上川)などがあり、ノンモは宮沢賢治が見た景色を見て、歩いた道を自分で辿ってみたかったんです。

 

子供の頃からマンガと赤川次郎くらいしか読まなかったノンモも、なぜか宮沢賢治の物語にだけは心を惹かれ、作品の全てとは言わないまでも、かなりの本を憑かれたように読んでいました。

 

宮沢賢治の話の中には星が出てきます。木々も出てきます。風も、電信柱も、山も、猫も熊もネズミも、鳥も蛙もキツネもオオカミも、そして龍まで出てきます。出て来るだけではなくて、物語のなかで会話をするんです。もちろん「童話」なので、動物や植物が言語を使って話すのは当たり前なのですが、ノンモはそれ以上に「宮沢賢治が自然界と会話をしていた」という確信があり、その空を、その山を、その川を、その風を、その夜空を自分の目で見て、自分の肌で感じてみたかったんです。

 

イーハトーヴの空気を自分で吸ってみたかったんです・・・。

 

 

「イーハトーヴ」とは、宮沢賢治が故郷の岩手(いはて)をもじって作った造語と言われているのですが、宮沢賢治の心象世界中にある理想郷を指した言葉とも言われていて、その“理想郷”を当時のノンモは一人で訪れてみたかったんだと思います。

 

ツアーなどなく、スマホで情報やアドレスをググったり出来なかった当時、どうやって自分で探し出したのかは全く覚えてませんが、宮沢賢治の童話の中に出てくるナメトコ山(岩手県花巻市の西方、岩手郡雫石町との境にある奥羽山脈に属する標高860mの山)を見に行って、イギリス海岸(北上川と猿ヶ石川の合流地点から南にかけての北上川西岸に位置する海岸)を散策し、宮沢賢治が1926年に設立した私塾『羅須地人協会』を訪れ、その壁に宮沢賢治がチョークで書いた「下ノ畑ニ居リマス」という直筆の文字を見て、宮沢賢治自耕の地(下ノ畑)を歩きました。
 

 

 

 

それから、バスに乗ったのかタクシーを使ったのかは忘れましたが、宮沢賢治の生家まで行きました。童話約100編、詩約800編を生み出したその場所のエネルギーを肌で感じてみたかったんです。

 

とは言え「記念館」などになってる訳ではなく、当時も、今でも宮沢賢治のご親族が住んでらっしゃる場所なので、勝手に中に入って行くわけにもいかず、しばらく家の前でウロウロしていました。しかし、それからバレー部で坊主頭だったノンモは意を決したのか、ついに門のベルを押してしまいました。すると少しして門が開き、中から宮沢賢治の弟の清六さんが出てきました。

 

 

清六さんは最初こそ怪訝そうな顔をしていましたが、こちらが素直に花巻を訪れた理由や経緯などを話すと、あまりモノは言いませんでしたが、「賢治を訪れてきてくれてありがとね。気を付けて東京に帰るんだよ」とだけ言ってノンモに優しく微笑みかけ、温かい手でノンモの手を握ってくれました。

 

その夜、ノンモは旅館で手紙を書きました。翌日、東京に帰る前に賢治さんに渡したかったからです。スマホもコンピューターもない時間の流れはとても緩やかでした。だからゆっくり時間をかけて手紙を書きました。書き終えると、ノンモはちょっと外に出てみました。すごく静かで、風の音だけがサワサワ聞こえていて、空を見上げると東京では見れない天の川がはっきりイーハトーヴの夜空に架かっていました。

 

「文学とは善も悪も清も濁も同時に存在する大変豊穣な世界」と言った賢治さん。綺麗なだけでは成り立たない理想郷・・・。その理想郷の上空を銀河鉄道がジョバンニとカムパネルラを乗せて走っていくのを、中学生のノンモはいつまでも夢の中で眺めていました。

 

 

翌朝、目が覚めると物凄い雨が降っていました。このブログを書くにあたって都合よく話を盛っている訳ではなく、その日は本当に激しい雨が降り、風が吹き荒んでいました。旅館の人が親切に書いてくれた「行き方」のメモを持って、ノンモはお礼を伝えるとお辞儀をして旅館を後にし、貸してもらった傘を差してバス停まで歩いて行きました。バスを待っている間、目の前の雑貨屋さんのご夫婦が「雨に濡れるから、バスが来るまで雨宿りしといで」と言って招き入れてくれました。そして宮沢賢治にまつわる色々な話を語って聞かせてくれました。そこに売っていた宮沢賢治の手帳のレプリカ(中に書かれた宮沢賢治の直筆のメモまで再現されている)がとても欲しかったけど、その時のノンモにはお小遣いが足りず買えなかったことが心残りでしたが、雑貨屋さんのご夫婦の親切な温かさは何十年経った今でも心に残る大切なお土産になりました。

 

バスを降りると、もう傘を差しているのも、前へ進むのも難しいくらいの大雨と暴風になっていました。一時は諦めて引き返そうかとも思った程でしたが、それでも傘の下に身をすぼめて一歩ずつ歩いていきました。雨は弱まるどころか、先へ進むにつれて更に激しさを増し、それは石の階段を登り切った時に頂点に達していました。周りには人影一つなく、心細さと怖さと寒さで体が震えていました。でも、もうここまで来たのだからと意を決し、目的の場所まで歩みを進めました。

 

そして賢治さんのお墓の前に到着すると、不思議なことに雨も風も本当にピタッと止んだんです。さっきも言ったように、これは「雨ニモマケズ」の内容に合わせて都合よく話を創っているのではなく、本当にびっくりするくらいに雨も風もお墓の前まで来た瞬間に止んだんです。

 

嬉しいよりもちょっと怖くなって、ノンモの体はさらに震えていたのですが、とりあえず傘を閉じて賢治さんのお墓の前に屈み込むと手を合わせました。そして昨夜書いた手紙をバッグから取り出し、賢治さんに差し出しました。とは言っても、実際にはお供え物を置く石の台の後ろにそっと供えてきただけですが・・・。それからもう一度手を合わせると、賢治さんと長い長いお話をしました。

 

 

手紙や話の内容については敢えて触れませんが、あれからノンモの心の特別な場所にはいつも宮沢賢治さんがいてくれているような気がしています。だから安心して文章を書き続けられるような気がします・・・。

 

「つぎにゐらした時には、ぜひ丹内山神社の神さまにも会いに来てください」

 

 

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ


慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル・・・