私たちが泊った部屋は、ベッドが二つ付いた和室であった。
チェックインをしてお茶を飲んでいたら、末っ子の妹さん(Aさん)が自著の本をプレゼントしてくださった。
Aさんはモンテッソーリ教育に基づいた保育園を経営されている園長さんなのだ。
昨年は創立36周年のお祝いを、近くの森で行ったそうだ。子供たちといつも過ごす場所。
創立時からの生徒さんや保護者が企画進行してくれて、とてもいい会になったと言っていた。その時の様子をスマホで見せてもらう。
卒園生がたくさん駆けつけ、みんなこの保育園が好きだったんだな、ということが伝わってくる温かい写真ばかりだった。
そしてなぜAさんが諏訪に詳しいのかと言えば、園児を毎年霧ヶ峰高原に連れてきていたからだと知った。電車とタクシーを使い、わざわざ千葉から霧ヶ峰に来るってすごい労力。確かに霧ケ峰高原は広々と視界が開けている安心の場所だ。散策コースは園児でも楽に歩けるなだらかさ。登山靴は園で用意して、毎年使いまわしていたという。
ここしばらくはAさんは足を痛めて、来られなくなってしまっていたので、今回思い出の地である霧ヶ峰に行けたことをとても喜んでくださった。
そんなAさんの教育が注目されて、今では講演会に呼ばれたり、本を出版する運びになったらしい。
Aさんの主張は本にも書いてあったが、子供はとにかく愛情をたくさん受けて育つべき、というもの。
夕食の席ではその考えに至る昔話を聞くことが出来た。ここからは母の親友Kさんの語り。
「とにかく○○ちゃん(←私)、涙なくては話せないわよ。昔はみんな本当に貧しかったでしょう?うちもお母さんが6人の子供を抱えて、Aが産まれたら父親と離婚しちゃってねぇ。父親が甲斐性がなかったんでしょうから、悪いのは父親なんだけどね。そこで食うに困っちゃって、Aは近くの家にもらわれちゃったの。その家がお金持ちならまだしも、うちと同じような貧しい家でね。私とAは10歳年が離れてるからね。学校から帰ると、心配で毎日I(二つ年上の長女)やH(2歳年下の妹)とAの様子を外から見に行くわけ。そうして覗いていると、窓の向こうにおんぶひもを持ったAが、私たちが迎えに来るのを立って待っているのが見えるのよ。それを見た時の気持ちったらないわよ。そんなことを毎日やっていたら、そこの家の人が、あんたんとこで育てたほうがいいってAを返してきたの。でもお母さんは子供を食べさせるためにずっと働きに出ていて、Aをみるわけにいかないでしょう。だから私がこの子をおぶって学校に行って育てたのよ。だから私が二番目のお母さんなのよ。」

たしかに私も戦後の白黒写真で、子供が赤ちゃんをおぶっている姿を見たことがある。みんな生きるのに必死だった時代だ。
Aさんはもちろんそのことを覚えてはいないが、きょうだいみんなにかわいがられた記憶はしっかり持っていて、「私は辛いなんて思ったことがないの。幸せな子供時代だったわ。」というのであった。
そして今でもどんな時にでもしっかり眠れるし、朝起きれば快便が出るのだそうだ。
保育園の園長をしていれば、親とのことやいろいろ悩ましいことが起きる。それでも眠れなかったことがない、というのは、かなり安定した心の持ち主なんだな、と思った次第である。愛情の賜物なのだろう。
今回来られなかった長女のIさんは美人だったので、いつも母親からいい洋服を着せてもらっていた、お母さんの自慢だった、とは下の妹たちの弁。
「家の用事を言いつけられるのはいつも私。」とKさんは言う。
「私なんて全然用事も言いつけられなくて、興味も持たれなかった。」とHさん。
その下に弟が二人いて、末っ子のAさんはアイドル的存在だったようだ。
同じ姉妹でも、生まれた順番でこうも役割や性格が変わってくるのか…
そしてそういうしこりが、年を経てどんどん大きくなってしまうこともあるのだと知った。