気力がすっかり落ちてしまい、ブログもご無沙汰でした。
読んでくださった方にはご心配をおかけして申し訳ありません。
母は脳梗塞を起こして以来、麻痺は残らず、言語障害と記憶障害に陥っている状態。
私の顔を見ると喜んで、やっと来てくれた、と言うけれど、名前が出て来なくなりました。

最近の面会では私の父、彼女の夫の存在を忘れていることに気付いてびっくりしました。そんな人いたっけ?って感じなのです。
人間、自分に必要な人のことだけが最後まで記憶に残るんだな、と思いました。
生きる、ということに忠実なんですね。
病院を退院してからあてにしていた老健の施設は、もしかしたら受け入れてくれなくなりそうです。
排尿ができないのです。
膀胱がぱんぱんになっていても、おむつの中に尿を出すことができません。脳からの指令がうまくいかないのです。
それでバックを付けているんだけれど、そのカテーテルを抜こうとするのです。
点滴も抜こうとしていたようです。
つなぎを着せられて、手袋もはめている状態ですが、これは拘束している行為になり、老健でこれをすると虐待行為にあたるのだとか。母の排尿だけがネックになっています。
介護認定調査は受けたけど、結果が出るのが一か月以上先。特養に申し込む審査は3か月おきに行われていて、6月の審査には間に合わないそうです。

次は9月。
それまでの間、どこでみてもらえるのか…
神経病院への退院を勧められたけれど、そこではリハビリもなくただ置いとかれるだけです。
老健で預かってもらえるように、頑張ってたくさん申し込んでおきます。
また行き先が決まったらご報告します。
あの状態を見たら、自宅介護は私には無理、と思うようになりました…
夫は通常どおり会社出勤しています。
無理をせず、ストレスをためない努力、大事ですね!

 

 

ゴールデンウィークが終わり、夫は変わらず出社してるし、母もひとまず危機を乗り越えたようで、心静かな日々を取り戻している。
気持ちに余裕も出てきて、昨日はドラマ『しあわせは食べて寝て待て』と映画『PERFECT DAYS』を観た。
どちらも胸に沁みてしまって、今私は、今の自分、これからの自分に思いを馳せている。

『しあわせは食べて寝て待て』は膠原病を患った麦巻さとこが、家賃5万円の団地、週4日のパートの生活で一人でどう生きていくかを模索する様子を描いたドラマだ。
同じ団地には、ニートの司をはじめ、社会や家族に適合しづらい自分を感じている人々も生活している。
病気で頑張れない自分だけれども、薬膳と出会い、団地の人々との交流を通して、自分のペースで生きるとはどういうことか、に気付いていくさとこであった。

一方役所広司さんの『PERFECT DAYS』も同じテーマを持っていると感じた。(ネタばれあり)
主人公平山は初老のトイレ清掃員。
毎日判で押したようなスケジュールで生活している。起きて、布団を上げて、公園から持って帰った若木の苗木に水をやり、歯を磨き、制服を着て家を出る。玄関外の古びた自動販売機で缶コーヒーを買って、掃除用に改造した車に乗り込む。車ではお気に入りの昔の洋楽をかける。掃除はとても丁寧だ。仕事が終わると銭湯に行き、行きつけの飲み屋で軽く飲んで帰る。
休みの日には部屋の掃除、コインランドリーで洗濯、お気に入りのスナックに顔を出す。
彼の楽しみは公園でサンドイッチを食べながら、木々の間の木漏れ日を写真に収めること。ちゃんと現像して、お気に入りの写真は缶に保管する。あとは古本屋でよさげな本を探し、寝る前に読むことだ。
平凡に見えるけれども、毎日違う一日。見る景色、出会う人、同じ日は一度もない。
彼はそのことに満足しているのであった。役所さんの笑顔がとてもいいのだ。
彼にも過去があって今がある。多分過去に辛い思いをしたであろうことが、うっすら描かれていたが詳しくは語られない。
セリフがあまりなく淡々と生きる主人公を描いているので映画自体は長く感じるんだけど、この長さも人生を表してるかもしれない、なんて思ったりもした。

二つの作品に共通しているのは、幸せは自分が決める、ということ。あいだみつを氏も言ってたっけ。
小さな幸せに気づくのも能力。
その能力を手に入れた人は強いし、きっと満足できる人生を過ごしていけるのであろう、と思わせてくれた作品だった。

 

 

昨日夕方、病院から電話が来た。
ドキッとする。
「△△病院ですが○○さんの娘さんの電話でよろしいでしょうか?」「はい、そうです。」
この一言一句が長ーく感じる。
「今お電話したのは、看護学生の実習のことなんですが…」
そんなことだったのか。学生がお世話する了承を得たいそうだ。
「あの、母は元気になったんでしょうか?」
「あ、はい。つじつまが合わないことはおっしゃいますけど、ご飯も食べて美味しいって言ってましたよ。」と言われた。
良かった。足は痛いそうだが、ずいぶん回復した様子だった。
前回ブログを書いた時には取り乱したが、願いが通じたようだ。
思いの丈を言葉にして、誰かに聞いてもらえる。たとえ誰も読んでいなくても、自分が読者として客観的になれる。
ブログの効能に感謝している。
あの日は泣きながらブログを書いて、気持ちが落ち着いたのだろう、夜眠るころには(もし葬儀になったら、母の荷物を片付けないと子供たちの寝る場所がない)ことに思いが及んだ。ごみとしてある程度捨てはしたが、まだまだ荷物が客室に散乱していたのだった。
次の日は物置の荷物を整理して、子供たちの部活の道具やユニフォーム、もう使わない器具等を捨てた。
生きているだけで、本当に荷物は増える一方。これからは必要最小限の物で生きていきたい…と思いながら、大量に溜まっているタオルを捨てることができない私であった。
空いたスペースに母の荷物を押しこむ。冷蔵庫とテレビの行き先がないが、なんとか部屋としての機能は復活できた。
次は母の介護認定を受けて、お世話になる施設を決めなくてはならない。
家での介護はあきらめた。
今日でゴールデンウィークが終わり、明日から夫も再び出社する。
ゴールデンウィーク中は、東京のフェスを見るために3日間一人旅をした夫であった。
あとは何かの工作に熱中し、休みを満喫していたようだ。
睡眠の質が落ちるのは、ある程度の年になればみんな一緒。あとはいかに自分を追い込まず気分よく過ごすか、だ。
この休みをきっかけに元気になってほしいが、緊張はまだ続く。

 

 

母が骨折してから3週間。ちゃんと面会できたのは今日を入れて4回である。
1回目は母が脳梗塞になってしまってから、1週間が過ぎた後だった。
母の様子がどんなだか想像がつかず、とても緊張した。部屋に案内されて入ると母が「あぁあっこかい。良かった良かった。あぁ大好き大好き。」と私が面会に訪れたことをとても喜んだ。ちょっと子供に返ってしまったようにも感じた。手には手袋がはめられていた。点滴の管を全部外してしまう、ということだった。
感情も残っていて、私のことも認識できることに私は安堵した。
母の様子をビデオに撮って家族ラインに流すと「おばあちゃん、どんな時も笑顔があっていいね」と息子が言ってくれた。
2回目。母は私を見ると口をとがらせてなにか不満を持っているようだった。なかなか面会に来ない娘に文句があるようだ。
母の耳に補聴器を付けて「ごめんね。でも病院の規則で週に2回しか予約がとれないんだよ。」と耳元で言い訳した。
通じているのかどうか…この時はうまく言葉が出ず、私の名前もわからなくなっていたが、表情は豊かで、私は母が父と同じ顔をすることにビックリした。父も生前、眉間にしわを寄せて大げさに驚いたり、口をとがらせたり、表情は豊かだったのだ。もしかして…
「おじいちゃん、むっちゃんは会いに来る?」と母に聞いてみた。
「来るよ。しゃべんないけどね。」とたどたどしく言って、すーっと手を伸ばすしぐさをして見せた。そこにいるよ、とでも言うように。
私は父がいてくれるなら寂しくなくて良かったな、と思った。
この時に、母の鞄に通帳を発見したのだった。
3回目、部屋に入ると母が看護師さんに拝むようなしぐさをしていた。「つらいつらい。たのんます。」楽にしてほしいと頼んでいたのだ。
骨折の手術の二日後だったが、出血が止まらず輸血をして補っていた。
この日は夫は仕事が休みだったので、一緒に面会に行った。「痛いの?大丈夫?」と声をかけると、うんうん、とうなづいて、「パパもおるんやね。相変わらずいい男やね。」と上手も言ってみせた。なぜか関西弁。
夫が「なんで関西弁なの?」と聞くので「大阪生まれなんだよ。中学のころまで大阪にいたらしい。」と答える。私も母の関西弁を聞くのは初めてだったので驚いた。
痛くて辛そうだったが、私がひ孫の動画を見せると「あぁかわいい、かわいい。」と言って画面を撫でるのであった。
少し気が紛れて楽になってくれたらよいが…
そして今日、4回目の面会に行ってきた。
輸血の管はなかったが、明らかに身体が弱っているように感じた。
片目しか開かず「あっこかい。」と言う。私は指でもう片方の目を開けた。
今日は母の携帯を持って行って、お世話になっているお琴の先生がくれたメールを読み上げたが、たいして反応を示さなかった。
「何か言いたいことがあれば私がメールを打つよ。」と言っても、特に何もないらしい。
私を見て「幸せでね。幸せにね。」とうわごとのように繰り返すだけであった。
私は家に帰ってきてからずっと泣いている。
母の最期を感じてしまったのだ。なのに連休が入って、次の面会は5日後だ。
母の温かい手をずっと握っていたい。励まし続けたい。でも叶わない。
どうか神様、母を回復させてください。まだ連れて行かないでください。
今はひたすら願っている。

 

 

ケアハウスを引き上げると決めたからには、一日でも早い方がいい。日々料金は加算されていく。
ケアハウスの職員さんに「引っ越し業者と連携をとったりはしていないでしょうか?」と尋ねてみる。
「特別引っ越し業者さんとのお付き合いはないんですよ。ごみ処理業者さんだけです…。」
そうか。ここは身寄りがない人の終の棲家になっているんだ。改めてそのことを認識する。
仕方がない。私がやるしかない。

私は軽貨物車に普段乗っているので、こういう時に力を発揮するのであった。
1年半とはいえ、住居として暮らしていたのでそれなりにいろいなものがあった。
冷蔵庫、テレビ、電子レンジ、布団、ヒーター、扇風機、タンス、物干しざお…
タンスは引き出しを別々にして、台車に乗せて何回も運んだ。
運んでいる最中に住人の方に声をかけられることも多かった。「本当に残念だねぇ。」と皆さんお優しい。
母も最初こそケアハウスの暮らしを嫌がったが、最近では「職員の人も良くしてくれるし、いいところに入れてくれて良かった。」と言うほどなじんでいたのであった。
冷蔵庫だけはどうしても自分で持ち上げられず、介護ベットの引き上げに来た介護ショップの人に手伝ってもらった。
二日かけて荷物を全部運びだし、契約終了することができた。
今度は家に運び込んだ荷物をごみと分別する。
おしゃれだね、とたまに言われることがあった母であったが、本当に洋服をたくさん持っていて、半分くらい捨てることにした。
母が紙に書いた言葉も出てきた。”人類はAIに駆逐されるに違いない”と書かれていてぎょっとする。
いろんなことを考えていたんだなぁ…
一つ一つのものに思いがあるように感じて、なかなか作業が進まないのであった。
それでもごみ袋3つ分を分別しホッとしたとき、ようやく(あれ?通帳はどこだ?)と一番大事なものの確認を怠っていたことに気づいた。
あるであろうはずのバッグの中に無かった。

タンスの中にもない。
何度もバッグをひっくり返し探し回ったが、どこにも見当たらなかった。疲れが倍増する。
母に聞いてももう分からないし…
銀行に電話して、とりあえずここ数日で貯金がおろされていないか確認することにした。こんなことは考えたくなかったが、ケアハウスの鍵はスタッフが持っている。中に入ることは不可能ではなかったのだ。

どうせそんなに大した金額は入っていないことは知っていたが、数十万円でも今は助かる。
事情を説明した後の銀行の対応で、戸籍謄本を取ってきて親子の確認ができれば、通帳の動きだけは教えてくれるということになった。再発行は本人の意思と印鑑がないとできないと言われた。
次の日、戸籍謄本と鞄に入っていた印鑑を持って行ったが、それは銀行印ではなかった。
家に帰ってもう一度印鑑を探し、出てきた印鑑を全部持って行ったがどれも銀行印ではなかった。絶望する。
しかし、口座からお金は引き落とされてなかったことが分かって、そこはホッとした。
その日の午後、面会の予約が入っていたので母に「通帳どこにあるかわかる?」と一応聞いてみる。
「なんだか全然わからない。」と答える母であった。そうだ、骨折の時に持ち込んだバッグをもう一度見てみよう、と思って棚にある鞄を手に取った。
財布や携帯などの貴重品はすでに看護師さんから返されていたが、もしかしたら…という一縷の望みをかけて。
そうしたら、空っぽのバッグの脇のポケットに膨らみが…通帳と印鑑がそこにあったのである。
看護師さんは見過ごしてしまったのだろう。
母が貴重品を病院に持ち込んでいたことに、助かった~と心底思った。えらい、とほめたたえたい気持でもあった。
ちゃらんぽらんな母だけれど、こういうところはしっかりしていたんだな。
これまでの母の人生を全部肯定したくなるような、そんな気分にさえなったのであった。