直子さんのご両親はある程度年がいってから、お見合いで結ばれた夫婦だった。
でも”お母さん” は”お父さん” を見知っていて、密かに憧れていたと後から直子さんに打ち明けたそうだ。
小さな庭の手入れが好きで、家の一切を引き受けていた”お母さん”。
診断を下された後も、出来る家事はやっていた。
ある朝、寝床で”お母さん” が「こんな私なんて死んだ方がいい。包丁を持ってきて。私なんてお荷物になるだけ」と泣きわめく。
隣の居間から”お父さん” は「死ねるなら死ねばいい。なんたらかんたら…」と怒鳴り返す。
でもそれは決して感情的に怒鳴っているのではなく、実はこんこんとさとしていることに直子さんは映画を見直して気付いたそうだ。
”お父さん” の器の大きさに涙が出た、と後のインタビューで語っていた。
そんないろいろなシーンを集めて、最初のドキュメンタリー映画が出来上がった。
”お母さん” は毎日直子さんの映画のチラシをながめて、映画を観るのを楽しみにしていたという。
が、公開少し前に、”お母さん” は脳梗塞を発症し、病院に運ばれてしまう。
左半身に麻痺が残った”お母さん”。
”お父さん” は毎日片道1時間かけて、手押し車を押しながら歩いて病院へ見舞いに行く。
「リハビリ頑張って、また一緒にうちに帰ろう」と手を握り励ます”お父さん”。
そして自分も妻の介護をするために、一緒に筋肉トレーニングするのである。
95歳だ。
本当に男前な”お父さん” である。
直子さんがお見舞いに行って「誰が来たか分かる?」と聞くと口だけで「な・お・こ」と答える”お母さん”。
こんな状況でも娘がわかるんだ、と感動する。
療養型病院に移るときに、サプライズで”お母さん” を少しの時間家に連れて帰ることができた。
その時の”お母さん” の喜びむせび泣く姿は印象出来だった。
その後、家に帰ることなく、二度目の脳梗塞を起こし、”お母さん” はコロナ禍の家のアジサイが綺麗に咲く季節に亡くなった。
私が驚いたのは、病院の対応だ。 コロナ禍で面会を厳しく断絶する病院だらけだったが、危篤状態になってからしばらくの間、直子さんたちは”お母さん” に毎日面会することができたのだ。
”お父さん” は呼びかける。
「もう楽になっていいよ。また向こうで一緒に暮らそう。本当にありがとうございました。いい妻をもらえて幸せだった」
夫婦、家族にとって、”認知症”はとても辛い試練であったに違いない。
でも私は思うのだ。
それを共に乗り越えようとすることで気づく本当の絆がある、と。
直子さんも辛かったであろうが、製作者として接することで、冷静になれる部分もあったかもしれない。
人生にはどうしようもないことが起こることがある。
そういう時に、悲観に暮れ、絶望するのではなく、一歩引いて、受け入れ、希望を持ち、なんとかなるさと気持ちを明るく保つことが大切なんだと教えてくれる映画であった。
これを書くにあたってググったりしていたら、直子さん、東大文学部卒業と知った。
こういうご両親が、優秀な子供を育てるんだな、と改めて感心したものである。