月時計の蝶

月時計の蝶

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人は行き詰まったときに、そこから逃げるために何かを探しにでることがある。
 どこにでもいる平凡なサラリーマン山田宏は、じぶんがまさにその「行き詰まった」状況であると思っている。一応大手のシャッターメーカーの営業マンとして仕事の上では順調だといえる。
 しかし、来年四十を迎えるが、未だに独身で、家庭の安らぎというものを実家を出てから十数年来味わっていない。それに、何か趣味をしようと、資産運用の意味も込めて株取引に手を出したのだが、有名アパレルメーカーだから大丈夫と思っていた会社がその1ヶ月後に会社更生法の手続き、すなわち破産したことを知った。
 株に詳しい友人に聞くと、一年ほど前から中国などの人件費が安い国におされて、業績が芳しくなく、このような事態になるのも時間の問題といわれていたそうだ。しかし、経済新聞やニュースで海外勢におされる日本企業ということは見聞きしたことはあるが、大企業だから大丈夫だと高をくくっていたところがあった。
 しかし、終わってしまったことに、いくら文句を言ってもしょうがない。
 山田に残されたのは、数字が減った預金通帳だけとなった。ただ、腹が立つのは、その相談した友人の目である。
〈何も知らない素人が、繊細な株取引に手を出すから痛い目に遭うんだ〉
 明らかにそう物語っていた。
 しかし、口ではそういわない。いや、むしろ「運がなかったな」と慰めてくれるのだ。こういう偽善が無性に癇に障る。

 嫌なことがあると、全てが嫌になる。
 だから、全てを捨てて自分が自分でいられる『何か』を探しに行こうと思った。
 手始めに、アパートから出ることだ。懐には辞表が入っている。アパートを出て右に100メートルのコンビニの前に赤いポストがある。それにこの辞表を投函してしまえば、社会的に自分は自由になるはずだ。
 山田は、アパートの鍵もかけず、ドアを大開にしたまま外に出た。部屋にあるのは、今までの自分につながるものだ。全てを捨てるのであるから、これも捨ててしまおう。
 カツンカツンと階段を下りる。今までは、騒音にしか感じないその音が、今は山田を祝福しているようであった。

 ポストの前まで約1分半。

 胸がどきどきと緊張を告げる。

 --本当にいいのか?

 そう自問する。心のどこかでこのまま安定した生活を送ろうと囁く自分がいた。しかし、それ以上にもう止めることが出来ないと直感する自分もいる。
 そして、辞表を持った右手は、その直感にしたがって投入口へと向かった。
カタンッと軽い音がして、これで後戻りが出来ないという覚悟が生まれた。しかし、これから先に何かの当てがあるわけではないので、同時に言いしれぬ不安も覆い被さってくる。

「歩こう」
山田はそういうと、太陽が沈む方角、すなわち西に足を向けた。
何故西か。
それもわからない。だが、理屈で動き始めたわけではないのだから、なんとなくで動いてもよいのではないかと思ったのだ。

…まて、わしは家の電気を消してきた。
なのに、部屋には明かりが煌々とついていて、誰かの人影がある!


あれは、馬鹿な!

そんなはずはない!

あの娘は死んでいるんだ。

それに鍵をつけて仕舞ってあるはずだ。

だか、あの黒髪、あの顔は!


ああ、近づいてくる。

来るな!

わしは悪くない!

みんな、おまえ達が悪いんだ。
二木家だなんだと偉そうにして、わしをここに縛り付けてきたおまえ達がわるい

んだ!


頼む、助けて

老い先短い年寄りだと思って助けてくれ!


なんだ、素通りをしていった。
驚かせおって、実の父のところに行ったのか?
これも親娘の愛のなせる業というわけか?




…わしは何故倒れている?
誰かが近づいてくる。
あの娘だ。その手には黒く光る鉄の塊が握られている。
風間の持っていた銃か!
銃身から今撃ったばかりだということを示す硝煙がでている。

ごぶぇ。

口から、血があふれてくる。
意識も白いもやがかかったようにはっきりとしなくなっている。

わしは死ぬのか?
馬鹿なっ、こんな理不尽なことがあっていいわけがない。わしは残りの人生をこ

の娘を愛でていこうと思ったのに。
そうすることで、今までの薄暗い過去が忘れられるはずだったのに。

耳元に娘の口が、・・・何か言っているようだが、聞き取りづらい。


なんだ?
何を言いたい?


恨み言ならば、聞きたくない。


アイシテイル?


はっーはっは。
この年になって愛をささやかれるとは。
だが、自分を殺した人間に愛をささやくとはこの娘もわしに劣らず狂っている。

さすがは道を踏み外した兄妹の娘というべきか。

わかった。
ともに死者となって、この南方にて真の楽園を築こう。そしてわしはふたたび『

グリフォン』となるのだ。


二木などもう知るか。

生ある間はわしを縛り付けられたかもしれんが、死した後までわしを縛り付けられ

ん。


愉快だ。
実に愉快だ。
死がこれほどまでに待ち遠しいものであるなんて。
四十年間、数えきれぬ死のそばにいたが全く知らなかった。

 えっ、中が空だって?
 暗いから見えづらいのだろう。もっと目をこらしてみてみい。

 

 えいっ。
 

 なにをする? 決まっておろう。おまえさんを殺すのさ。
 今の頭にくれてやったシャベルの一撃で、もう致命傷になっているはず。おっと、銃はおっかないからね。手もつぶさせてもらうよ。
 

 えいっ
大の大人がこれくらいでギャギャー騒ぐな。
 
 本当に何でかわからないという顔をしているな。
 もうすぐ死ぬあんたには教えてやろう。
 
 わしがここで四十年間、どんな気持ちで墓守を続けてきたと思う?
 だれも人は来ない。
 来るとしても二木一族の誰かを埋葬したり墓参りするくらいだ。
 孤独の中で気が狂いそうになっていたんだ。
 

 …いや、もう狂っていたのかもしれない。
 そんな中で、おまえさんの娘を見つけた。
 もともと、おまえさんの妹が嫁いできたときから、わしの心には何ともいえない情欲の炎が生まれた。
 だが、わしは今よりか若く、二木の家に対する忠誠心もあってなにもしなかった。
 でも、もう還暦をこえて、家族もなく、なにも失うものがないとなったときに、今まで抑えてきた心がの箍が外れ、その炎が噴出したのさ。
 
 わしは密かに日本に戻り、おまえさんの娘が通う大学を張っていた。
 そして、じっと機会をうかがっていたんだ。
 そして、二ヶ月ばかりその行動を監視して、一人になるタイミングを把握すると、いよいよ実行の時がきた。
 
 フロントガラス越しに見えたあのときの表情は、まだわしの脳裏に焼き付いている。
 

 恐怖、驚き、そして諦め。
 

 そんな感情がすべてないまぜになったような、そんな表情だった。

 

 なぜ、殺したのかって?
 それは、わしが墓守だからよ。
 生きた人間をさらってここまで持ってくるのは不可能。
 それに、人間は年を経るものだからな。
 

 だが、死んでしまえば、死体は向こうからやってくるし、もう年はとらない。

 


 …あとは、もうわかるな。
 

 そこに何もないのは、もうわしが掘り出した後だからさ。
 あの家におまえさんが座っていたソファ。
 あの中に、きちんと防腐処理を施した死体がある。

 

 おいおい、わしのおかげで美しいままずっといられるんだ。そんな風に睨まずに感謝して欲しいな。

 

 なんだ。もう死んだのか。
 ちょうどいい、中が空の墓穴がひとつある。
 そこに埋めてやろう。
 ふふっ、娘の墓に父親が入る、何と感動的なことか。
 
 その前に久しぶりに体を動かしてのどが渇いたな、ちょっとお茶を飲むか。

 うん?この写真の娘に見覚えがないかって?

 ええと、ああ、この娘も二木の家の娘だな。
 この窓からみえるだろう、あの白くて丸い墓石が。
 あそこに眠っているよ。
 確か、分家の娘だと思う。
 大学に入ったばかりだというのに、ひき逃げで死んだそうだね。
 世の中には非道いことをする人間がいるもんだ。
 母親似の綺麗な黒髪と透き通るような白い肌の別嬪さんだったのにねぇ。

 それで、この娘がどうしたんだい?
 
 この娘の骨はどうだったか?

 なんだか、奥歯に物が挟まったような物言いだね。
 何かあると思っているのかい?
 そりゃあ、二木の家の娘だ。
 真珠色の骨だろう?

 ―違う?
 
 この娘は二木の血をひいていないだって。
 
 なんで、あんたそんなことが断言できるんだ?
 なっ、なんだ、その銃は!
 そんな物騒なもの、早く仕舞ってておくれよ。
 わしのような年寄りをいじめて楽しいのかね。
 わかった。
 外に出ればいいんだな。あの娘の墓までいけって?
 わかった。わかったから、そんな風に銃をむけないでくれよ。

 ああ、雨が降ってきやがった。
 せっかく、暖炉で暖まったというのに、これじゃあ、風邪をひくじゃないか。



 そら、着いたよ。
 
 墓を掘れって、わしは墓守で墓荒らしじゃないんだがね…。
 わかったよ、まずは墓石をどけなきゃらん。
 あんたも手伝ってくれ。
 そんな、年寄り一人で、こんな重い墓石をどけろなんて殺生な。
 
 ―よいしょ、よいしょ

 さぁ、あとは土を掘って棺を掘り出すだけだ。その前に訊きたい。
 あんた何でこんな事をするんだ?

 …? 泣いているのか?

 自分は五報新聞の記者じゃない、二木家の会社で働いている風間だ?
 風間というと、確かわしと同じ二木家に昔から仕えている家のもんだな。
 でもこちらと違って、そっちは元々江戸留守居役も輩出した名家、こうして顔をつきあわせても親近感というものはないな。
 それで風間のもんが、なんでこんなところでわしに銃を突きつけている?
 ここに眠っている娘がおまえさんの娘だって?
 だって、ここは二木家の…。
 それに、この娘の母親はたしか風間家から嫁に来たはず。
 あんたの妹?
 
 くっ、くっ、くっ。そうか、おまえさんは人の道を踏み外して兄妹で子をこさえた外道という訳か。
 そして、妹はその娘を何食わぬ顔して二木の娘だと大切に育てていたわけだ。
 父親、いや戸籍の上での父親はいい面の皮だ。

 がぁ!

 …年寄りを殴るとは、やっぱりおまえさんは外道だ。
 みろ! 血が出てしもうたわ。
 まぁいい、娘が眠っているここまできて、墓を荒らすのは、自分の娘を取り戻すためか?
 ふん、わかった。掘ればいいのだろう。
 そっちのシャベルを貸せい。
 
 
もう、だいぶ掘っているが、やはりひとりでやると老体にはこたえるの。
 おっ、何か固いものに当たったかな。
 棺かもしれん。…ああ、やっぱり棺だ。
 棺は自分で開けるか?
 なんだ、釘抜きを持っているのか。随分手回しのよいことだな。
 もう、銃で脅す意味はないだろう?
 だから、早く仕舞っておくれ。

 やがて、終戦となり、二木の家にも時代の荒波が訪れた。
 始めは戦争で儲けた財をあらかた手放さなきゃならない羽目になったんだけどね。
 GHQへ上手く取り入ったことで、その後は破竹の勢いで、失ったもの以上の富を手に入れられたんだ。
 
 でも、一族はまだ安心して眠れていなかった。
 二木の家の人間は、真珠色の骨を持つ化け物といわれたら、今まで築き上げてきた栄光は水泡と化すかもしれない。
 そこで、ここ、日本からはるか離れた南方の孤島に二木一族の墓地をつくることにした。
 
 幸いというか、二木道之の長子、康道がこの南方にて最後を遂げたのでね。
 
 えぇ、長子ならば、戦争に行かなくてもよかったんじゃないかって?
 そうなんだけど、康道はいわゆる妾の子でね。
 
 それで、身分卑しからぬ方々は、康道が当主の座には相応しくないと、部屋住のような立場に追いやってしまった。
 そこに召集令状が来たというわけさ。
 これはわしの意見だが、一族の誰かが軍に手を回したんじゃないかと思うんだ。
 じゃなきゃ、妾の子とはいえ、二木の家の長子が激戦の南方におくられるわけがないじゃないか。
 
 うん、話を戻そう。
 真実がどうであれ、二木一族は彼の霊が寂しくないようにここを一族の墓とするということにした。


 一見はそれは美談だが、その真実はもっと生々しいものだよ。
 ともあれ、このような場所にわざわざ墓を暴きにいくものもいないだろうから、二木一族はようやく枕を高くして眠れるようになった。


 ―ただし、もう火葬はしないんだ。
 だってそうだろう、せっかく闇に葬ったというのに、葬式をする度にその現実を改めて突きつけられるなんて気分がいいもんじゃないからね。
 
ここまで死体を運ぶのに必要な法律とか手続きとかは偉い人がなんとかしているそうだから、わしにはよくわからん。
 
 わしかい?
 この墓地が出来たときに墓守になったのが父だった。
 わしの家は、江戸時代から二木家にご奉公していたんでね。それで随分信頼されていたんだ。 
 やがて、父が死に、それからずっとわしが跡を継いでいる。