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自分で歌詞を書く人って、その歌詞が実話かどうか尋ねられたりしませんか?
僕は、ちょくちょく訊かれます。
僕の場合は、実際にあった事をそのまま歌詞にする事はほとんどありません。
では、全てフィクションなのかと言えばそう言う訳でもありません。
全ては、自分の中から出てくるもので、自分の体験から出てくるものなのです。
おそらく、僕と同じ様なこういったスタンスで作詞をされる方は多いと思います。
そういった方に尋ねたいのですが、このニュアンスがなかなか伝わらない場合って多くはないですか?
今回は、自分の作詞スタンスの解説を交えながら、このニュアンスを頑張って分かり易く解説してみようかと思っています。
前置きが長くなりましたが、ここから本題スタートです。
ドラマや漫画で実在の人物がモデルになっていると説明されている物語があるが、この「実在の人物がモデル」と聞いて、その人の伝記の様に受け取る人は案外多い。
そのドラマや漫画の中で起こる出来事を、実際にそのモデルの人物が体験した事であり、その人物の人生そのものを描いているかの様に受け取るのだ。
そういう勘違いに遭遇する度に、実話をドラマ化した作品と実在の人物がモデルになった作品の違いについて説明したりしていたが、これを伝えるのがなかなか難しい。
本当に、なかなか伝わらないのだ。
実在の人物をモデルとしているドラマやアニメでも、「このドラマはフィクションです」などと、大抵は断りが入っている。
しかし、どこまでがフィクションなのかと言うと、作品毎に全て違う。
本人が体験した話をもっと面白可笑しく大袈裟に表現したり、迫力が出る様にニュアンスを変えてみたり、面白くする為に登場人物を変えてみたりとしているが、あくまで実話が元になっている作品もある。
その逆に、その人の持つイメージのみにインスパイアされて、その本人の人生なんて何も知らずに、完全に架空の話を描いた場合もあって、それも、その人がモデルであると言う表現が使われる。
しかし、「実在の人物がモデルである」と言う表現を使う場合は、それはほぼ実話ではないと言う意味でもある。
この物語はフィクションであると断っている場合など、尚更だ。
歌の歌詞の場合も、このパターンに非常に似ている場合が多い。
僕の書く歌詞に関しては特にそうだ。
例えば、失恋の気持ちを歌詞にする時、当然、僕は失恋の経験者なので、その辛さは知っている。
同じ失恋でもいろんな辛さがある事も知っている。
どんな風に辛いかと言う事を、いろんな言葉を使って表現していく訳だが、そこは、自分の経験した辛さをその引き出しの中から引っ張り出してきて、言葉を駆使してそれを表現していくのである。
しかし、歌詞全体が体験談や実話なのかと言うとそれは違う。
一つ例を挙げるとすると、「校庭で元気に走る回る同級生を、いつも教室の窓から見ていた」なんて内容の、初恋の事を僕が書いたとする。(実際にはそう言った詞を書いた事はない)
初恋の心理は、恋を経験した事のある人間ならば誰でも理解出来る訳で、当然僕にも理解出来る。
しかし、そのエピソードや、細かい心理などは人によって勿論異なる。
僕には、詞の中に書かれている様な、部活か何かでいつも校庭を走り回る彼女を、遠くから眺めてたなんて経験はない。
けれども、初恋の心理も嘘ではないし、遠くから初恋の女の子を見ている気持ちも理解出来る訳だ。
つまりシチュエーション自体は、作り話であっても、その心理など歌詞の中で訴えたい核心の部分は真実であり、間違いなく自分の経験の中から出てきたものなのだ。
そういう意味では、歌詞は真実なのである。
それと、いくつかの体験の蓄積であるので、いろんなシチュエーションが足されて、実際にはなかったシチュエーションが作られる場合もある。
こういうパターンは、かなり実話に近いとも言える。
それから、書いていくと自然に歌詞が一人歩きを始める事もある。
漫画や小説でも、キャラが独りでに命を吹き込まれた様に、一人歩きを始めて、勝手にストーリーが進んでいくと言ってるのを何度か聞いた事があるが、まさにその感覚だ。
そんな時は、作品を書いているのではなく、あたかも、意思を持った作品にどんどん書かされてるかの様な感じさえする。
僕は基本的に、それにまつわる話は実際にあった話をそのままに描いたりはしない 。
◇歌詞で自分語りをしてはならない
その理由はいくつかあって、まず、これは自分のポリシーであるのだが、恋愛に関するいろいろなエピソードや大切な想い出は、自分と彼女の(フラれている場合は、自分だけの)大切な思い出なので、のろけ話であれ、歌詞であれ、他人に公開などはしたくないし、公開されるのも嫌だと言うのがある。
そんな僕みたいな、友達でも何でもない見ず知らずの男の、何処にでも転がってる恋愛体験談を聞かされて、感動してくれる人がいるなんて思っていると大間違いで、大抵の場合は、迷惑以外の何物でもない。
僕がそんな曲を書いたとして、勿論、僕の実体験そのままの独りよがりの曲でも、褒めてくれる人はいるだろう。
それは、独りよがりの曲に限らず、物凄く下手な歌や演奏でも同じで、必ずといっていい程、褒めてくれる人は世の中のどこかにいるものだ。
しかし、ネットなどで、稚拙な曲や、あまり上手じゃない歌や演奏をアップしていて、「感動しました」などとコメントを入れてあげてる人を見かけるが、僕は、それを客観視していて本心だなんて受け取ってはいない。
下手だけど、「一生懸命頑張ってる人」に対する暖かい声援のつもりで声をかけているに過ぎないのだろう。
実際に、その実力で販売されて、プロと同じ扱いでショップのラインナップに並んでた場合には、そんな暖かいメッセージが来る事なんて絶対にないと言っていいくらいだろう。
歌詞だって同じだ。
ネットに、そんな僕の体験を歌詞にして「聞いて!聞いて!」と言わんばかりにアップしたところで、優しい人が、まるで母性愛や父性愛の様な暖かい目で、優しいコメントを入れてくれる事くらいはあるかもしれないが、本気でそんなコメントをくれる人などきっといないだろう。
実際に、見ず知らずの、或いは、あまり親しくないおじさんに家に呼ばれて、昔の彼女の写真や想い出のホームビデオを見せられて、過去の恋愛話を聞かされて、「また聞きたい!」なんて事を、自分なら思うのかどうかを想像してみれば、答えは簡単に出てくるだろう。
僕なら、聞くのも面倒臭いだけだし、早く帰りたいと思うだろうし、2度とその人には関わりたくないとまで思うかもしれない。
しかし、自分が失恋して辛い時に、そのおじさんが、おじさんの体験談を交えながら、僕の為に僕自身の立場に立って話を聞かせてくれたのならどうだろう。
その場合、そのおじさんとの距離が一気に縮まる可能性も高い。
僕は、歌詞を他人の為に書いているのではなく、自分自身の為に書いている。
でも、「自分!自分!自分!」と言う、面倒臭い程の自己主張は大嫌いだ。
僕は、自分の為に書く事が誰かの役に立った時、それは、きっと成功なのだといつも感じる。
自分の体験からくる心情であっても、僕の場合、100%と言う訳ではないが、同じ様な心理の人に語りかけている様な気持ちも自分の中にはある。
「自分は辛かったんだ!」ではなくて「こういう時って辛いよね」ってスタンスが混じっていると言った方が分かり易いのかもしれない。
それも、僕の場合は、大きなお世話やおせっかいの域になる様な、励ましソングも好きではないので、励ましの域まで行く様な事はあまりない。
でも、全く同じ事を伝えるのでも、自分目線100%で同意を求めるより、聴く人の立場と目線で、似た様な体験の経験者として同意をしてあげるスタンスの方が、より伝わり易いのではないだろうかと、僕は思っている。
念の為に言っておくが、実話がダメだといっているのではない。
実話を書きたい人は書けばいい。
ただ、僕自身は、僕の実話で誰かの心に訴えかけたいとも思わないし、それが出来るとも思っていない。
それが出来る体験談と表現手法を持つ人ならば、当然、話は違ってくるので、これは不特定多数に当てはまる話ではなく、あくまで僕と言う人間に限定された場合の話だ。
歌詞がメッセージ的でなく、ストーリー性がある場合、歌詞の中の一つ一つの出来事も同じ様な体験がなければ、その状況描写も出来ないし、その時の心境も分からない。
つまり、歌詞に使われている言葉達をパーツだと考えた場合、その各パーツに嘘はないのだ。
その全てが自分の何かしら体験した事から出て来た表現であるので、それが、事実ではない作り物であっても、そこに嘘はない。
勿論、全てが自分自身の体験とは限らない。
他人の体験を間近で見てきた場合も、それを見て感じたと言う体験は自分自身の経験な訳だ。
それはそれで、自分独自の目線で何かしら表現する事は出来る。
そういった真実が詰まった様々なパーツが集まって構成されているストーリーは、現実にはなかった作り話とも言える。
『実話じゃないけど、真実』
一言で表現するとそういう事だ。
『事実じゃないけど、真実』と言う言い方でも、正解なのかもしれない。
僕の場合、そのフィクションのストーリーをわざわざ組み立ててから歌詞を書く事はあまりない。
多くの場合、曲を書く限り、その曲で言いたい核心の部分はもう決まっている。
その核心の部分は、大抵、極めてエモーショナルで単純な言葉で片付く事が多い。
その言葉へいかに導いていくか、そして、いかに歌詞全体に肉付けをしていくかの作業こそが、それすなわち、「僕の作詞」なのだ。
1つ注釈を入れさせて貰うと、当然、「これが自分の作詞だ」と言うものは、他にもいくつかパターンはあるので、これはそのパターンの1つに過ぎない。
さっき少し触れたが、その作業で、言葉遊びなどをしながら、進めていくうちに、自分の手を離れて勝手にストーリーが進行し始める様な感覚に陥る事がある。
更には、複雑な自分の体験が一つの世界の中にスッキリ整理されて、自然とピックアップされて集約されていく感覚がやってくる。
そうなると、作業は一気に終わりに近付く。
そうやって出来た曲には、どこにも嘘はない。
しかし、実話でもないのだ。
更に、ここで誤解をされてそうなので、解説しておくと、「全てが体験から来る」と書いたが、「全て体験している」と言う意味ではない。
全くの想像で書いている場合だって勿論ある。
例えばその一つに『勘弁してよ!お願いだから 』と言う曲(アルバム『解放』に収録 )があるのだが、この曲は、女の子の心境を歌詞にした曲で、僕は女の子ではないので、当然、実体験ではない。
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しかし、こういう立場の女の子を間近で見ていた経験があるのだ。
この悩みについて、歌詞のモデルになった女の子から相談を受けて、直接話を聞いたと言う経験から膨らませて書いた曲なのだ。
でも、歌詞に歌われている様な心境をモデルの彼女が口にした訳ではない。
モデルの彼女と言うより、作品の中の彼女になり切って書いた歌詞であり、作品の中の彼女から自然に出て来た台詞と心理を歌詞に書いたのがこの曲だ。
なので、彼女にとっては真実ではないが、自分にとって嘘はない。
そして、モデルの彼女と歌詞の中で命を吹き込まれた彼女は全くの別人格であるとも言える。
そんな曲なのである。
ざっと、モデルがいると言う事はモデル自身の身に実際に起こった事とは限らないと言う言葉の意味、伝わったでしょうか。
僕の曲は、実話ではないが嘘ではないと言う意味、ご理解頂けたでしょうか。
作詞にまつわる今回の話はこれで終わりです。
では、また次回。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
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