辻が花という言葉の由来について、前回も述べましたが、ぼくがいつも言っているのは、
辻が花=辻の花=道々の花=その辺にある何でもない草花=身近な自然 という説。
実際安土桃山時代の辻が花にも、藤、椿、菊、桜、梅、桔梗、桐、葵、楓、つつじ等が、草花以外では兎や貝・鳥などが生き生きとあらわされています。
身近にある四季の草花、自然を何とか衣服に模様としてあらわしたい、その想いを絞りや墨描き、刺繍や箔で何とか形にしたものが辻が花なのです。
時は戦国の乱世。誰もが明日のわが身も分からないようなときに、身近な美しい草花に想いを馳せ、はたまた枯れ、朽ちた葉に何を感じたのか。。
現代に生きるぼくには想像だにつきませんが、彼らはその境遇の全てを受け入れる事によって、辻が花という染物を生みだしたのだと思います。
命というものが決して保障されたものでない時代だったからこそ、一瞬咲き誇り、枯れ朽ちていく花に自分達の姿を重ね合わせたのでしょう。美しく咲く花だけでなく、枯れたものにさえ美しさを感じたのは、自分達の存在肯定と、その時代へのレクイエムだったのかもしれません。
今のぼくたちはどうでしょう。
時間に追われる現代人の忙しい毎日には、自然や四季の変化に目を留める余裕はなかなかありません。昔より自然も減っていますし。。
ですがどんな都会にでも必ず自然はあります。街路樹や空、コンクリートの隙間から咲く小さな花。
少し立ち止まってそういうものを見ると、そこから様々な色や形、においなどを感じることが出来ます。
枯葉でさえよく見れば味わい深く、美しいもの。。
足早に歩いていてはつい見過ごしてしまうなんでもない自然を感じ取り、美しいと思える心の余裕、それを失ってはいけないと思います。
着物には、美しい日本の自然、四季が様々な技法であらわされています。世界を見渡しても、これほど華やかに自然を取り入れた衣装はそうはありません。
そこには日本人が持ち続けてきた、自然への敬意、畏怖、愛情などが見受けられます。
着物を着るという事は、美しい日本の四季を纏うということ。
着物を着ると、身近な草花に自然と目が留まるようになると思います。
日本人が生来持っていた、美しいものを美しいと素直に感じられる心を、着物は与えてくれる気がします。
それはまさに辻が花を生み出した心なのです。
そういう点においても、着物を着る人がもっと増えればいいな、と思います。
なにも毎日着物を着ろというわけではなく、たまには着物を着てみることで、心に余裕やゆとりを持つ事が出来ると思いますよ。
さて、現代に辻が花をつくるものとして、どういう考えで物づくりに取り組めばいいのか。。
美しいもの、それをつくる事がまず前提としてありますが、ただ美しいだけでなく、曖昧ですがその先に何かを感じてもらえる作品をつくれたら、と思っています。(その領域に達していませんが。。)
絞の曖昧さ、墨描きのはっきりした潔さ、虫食いの侘び感。
辻が花のもつ魅力は実はとても日本人的ではないでしょうか?
閉塞感漂う競争、格差社会である現代は、なんでもありな風潮もあり、ある意味戦国・安土・桃山時代と似ているところもあると思います。
その中で、近年「日本」という国、文化を再認識しようという流れがあります。
現代に再び咲く辻が花。その存在は必然なのかもしれません。
辻が花を生み出した日本人らしい心、それを見る人に再び思い起こさせるような作品・着物を今後つくって行きたいと思います。
そのためにも日々是精進