シャルル7世とアニエスの間には3人の娘がいました。マリー、シャルロット、ジャンヌ。
それぞれの娘たちは成人すると国王の計らいで名門貴族に嫁ぎます。特にシャルロットはモールヴリエ伯ジャック・ド・ブレゼと結婚、その息子のルイはアンリ2世の寵姫デイアーヌ・ド・ポワチエと結婚しました。
時は1515年、デイアーヌ15歳、ルイ・ド・ブレゼは56歳!でした。
ルイ・ド・ブレゼは1531年に死亡してしまいます。72歳でしたから当時としては長寿の方ですね。
デイアーヌ・ド・ポワチエは国王フランソワ1世から、フランソワ1世の身代わりとして数年間スペインに幽閉されたため粗野だったアンリ王子の特別教育を依頼されます。フランソワ1世の妃エレオノールの女官としてフォンテンヌブロー城に住み、アンリの教育をしてほしいと。
少し先を急ぎ過ぎました。アニエスの時代に戻ります。
1449年イングランド王ヘンリー6世はフランスの王位を主張してノルマンデイーに侵攻します。
アニエスの娘シャルロットは1462年にジャック・ド・ブレゼと結婚し、ジャックは1450年フォルミエールの戦いで右翼を任されイングランド軍を撃破します。
この年、1450年の冬、アニエスの悲劇が起こったのでした。
シャルル7世はアニエスの巧みな誘導と激励もあってノルマンデイーのジュミエージュに冬の陣を敷いていました。
この時代のジミエージュはノルマンデイー随一の壮大な僧院でした。
ロッシュの城にいたアニエスは国王毒殺計画の情報を手に入れ、7か月の妊娠中の身でありながら冬の氷雨が降りしきる中、シャルル国王に知らせるべく馬に乗っておよそ350kmの道を走り続けました。凍えつく寒さ、疲労、そして出産間近の身でしたから、あと少しで国王が陣を張るジュミエージュに到着する直前、僧院付属のメニル・ス・ジュミエージュで倒れてしまい、2月の寒い夜、未熟児を出産しアニエスは産褥で息絶えてしまいます。
ロッシュ城を出るときすでに容態は悪化しており、ポワトバンという主治医が同行していましたが、旅程中すでにお腹から羊水に混じって多量の出血があり、主治医が水銀を処方したことでしょう。また最後に食べた鱒が傷んでいて赤痢にやられたという説もありますが事実は謎に包まれたままです。アニエスの死を知らされたシャルル7世は鱒が原因で赤痢にやられたと断定し料理人を即座に処刑してしまいます。
2005年になってアニエスの遺骸が調査され、フランスの化学者のフィリップ・シャルリエが死因は水銀中毒と断定しました。アニエスの髪の毛からは通常の1万~10万倍の異常な量の水銀が検出されました。同時にアニエスの腸からは多量の回虫の卵の死骸が見つかりアニエスが回虫症に罹っていて、回虫駆除のために水銀を用いたのも事実だったようです。
それと当時は化粧の際、水銀や金を用いたのですね。デイアーヌ・ド・ポワチエの遺体の髪を検査したところ多量の金が見つかっています。重金属は体内で蓄積しますから彼女たちは美貌を保つために命を懸けたのですね。
アニエス毒殺の噂は死の直後から広まっていました。シャルル7世の財務官になっていたジャック・クールも冤罪を着せられ投獄されますが、これは莫大な財を築いたジャックを公金横領罪で宮廷から追い出そうとする廷臣たちの嫉妬から出たものでしょうね。ジャック・クールにとってはアニエスは超弩級のお得意さんで、国王に引き立ててもらうよう図らってくれた大の恩人なわけでアニエス殺害の動機は見つかりません。
一番有力視されていたのはシャルル7世の嫡出子のルイ11世ですね。アニエスの死の4年前にルイ11世(当時はまだ王太子)は国王シャルル7世に反逆を企て、結果は失敗に終わりますが、アニエスに対しても父を篭絡し腑抜けにした女として非常な憎悪を抱いていた。アニエスを亡き者にし国を救おうとした思いなど動機はいくらでもあるわけです。
