シャルル7世の父親シャルル6世は精神障害を持っていたといわれています。
ある時、戦場で突然妄想に襲われ、味方の騎士に剣を抜いて襲い掛かり4人も殺してしまった。これが精神障害の最初の発作でその後もたびたび発作に襲われたと言われています。
シャルル6世のお妃イザボー・ド・バビエールは前にも書きましたが綽名を「淫乱王妃」と呼ばれていました。ある日王妃は「息子のシャルルはシャルル6世の子ではない」と公言したと言われています。以来息子のシャルル王太子は自分は母親イザボーの不倫から生まれた子なのかと自虐の念に取りつかれ自閉症に陥っていたと言われています。
王妃の言葉を善意で解釈すればシャルル王太子はシャルル6世の精神疾患の遺伝を受け継いでいない、そう言おうとしたとも解釈できますが、しかしだとすると、自分の不貞をあからさまにしたことになり、こちらの方が罪が大きいですね。
英仏間、とくにブルターニュ地方で今日も盛んな「アーサー王伝説」には、王妃グイネヴィアがフランスから来た騎士ランスロットに一目ぼれし、ふたりが抱擁している現場を見た騎士ゴーヴァンだったかが、国王アーサーを 囲む円卓会議中、王妃の不倫を国家反逆罪として訴える。これを機にアーサー王が描いていた理想の国キャメロットの幻想は崩れ、国王は精神疾患に陥り、騎士たちは治療できる唯一の秘薬が入ったグラール(聖杯)を 求めて世界中を放浪したあげく皆死んでしまう。
プランタジネット朝はアーサー王伝説を自らの正統性を証拠づける根拠に利用しましたが、元をたどればアリエノールダキテンヌの頃から英仏の王朝の起源はひとつだったわけで、英国王のヘンリー6世とフランス王のシャルル7世とが親戚関係にあったとしても不思議ではありませんね。
この間の事情をも少し詳しく見ると、
1435年8月フランスの北の街アラスでイングランド、ブルゴーニュそしてフランスの3者で講和会議が開かれます。しかし交渉は決裂、イングランドは引き上げ、残ったブルゴーニュとフランスで和約を締結します。
1436年パリがフランスにより奪還され、1441年にはパリを含むイル・ド・フランスとシャンパーニュもフランスが取り返します。残るイングランドの大陸側領地はノルマンデイ―と南西部のアキテーヌ、北東のカレーのみとなります。
この劣勢を挽回する策としてイングランドの朝廷の重臣たちはヘンリー6世とフランスのシャルル7世の王妃マリー・ダンジュの姪マーガレット・オブ・アンジューとの結婚以外にないと主張します。
1451年フランス南西部アキテーヌ地方の首都ボルドーがフランスにより奪還されます。
フランスでのイングランドの劣勢を挽回するため差し向けられたシューズベリー伯は1453年7月17日のカステイヨンの戦いで戦死してしまい。これを機にヘンリー6世の精神錯乱が始まります。
ヘンリー6世は自身の周りで起こっていることを全く認識できなくなり、この疾患はその後1年間続きます。
ヘンリー6世の病は、おそらく母型の祖父シャルル6世から遺伝したものと考えられています。
ヘンリー6世はアザンクールの戦いでフランス軍を撃破したヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴアロワの子ですから。この関係は、1420年に遡ってトロワ条約を見るといっそう明らかになります。
1420年5月21日、フランスのシャンパーニュ地方の街トロワ Toroyes で交わされた条約。フランス王シャルル6世の死後にイングランドの国王ヘンリー5世がフランス国王の後継者になると決めた。これはシャルル6世が娘婿に王位を譲ることに決め、自身の息子シャルル王太子(後のシャルル7世)を王位継承者から排除する取り決めでした。
当時すでにシャルル6世は発狂しており、王妃イザボー・ド・バビエールは綽名の由来どおり淫乱ぶりを発揮してヘンリー5世と恋愛関係にあったのではないか、と噂されています。
しかし、トロワ条約は書面として残っただけで実際は1422年8月31日にヘンリー5世が亡くなり、同年10月21日にシャルル6世も没してしまいます。
ヘンリー5世の6か月になる息子(ヘンリー6世)はフランス王およびイングランド王の二重国王と宣言されました。
しかしヘンリー6世国王はフランス側ではノルマンデイーだけで承認され、ソルボンヌの学者たちは、フランスの王位は国王独りが決められるものではないと、王位継承法に基づき、ヘンリー6世の国王就任は認められないとしました。