”ロマン・ロランのヴァレリー批判” | 雷神トールのブログ

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めのおがヴァレリーを初めて読んだのは

中学の同級生で同じ高校へ進学したS君が

奨めてくれ一緒に読もうと言ってくれ

彼に手助けされて読み進んだのでした。 

 

 

 

S君は中学時代から非常な読書家でしたから

言葉に関心を持ち、高校に在学中すでに

チョムスキーとか構造主義言語学の本を読んでいました。

そして望み通り大学では言語学を専攻し

言語学者になりました。

 

ヴァレリーをめのおに奨めたのは

「詩と抽象的思考」

「ドガ・ダンス・デッサン」

などヴァレリーのエッセイに

構造主義言語学の創始者

フェルデイナン・ソシュールと

同じ言語に関する思考が書かれているからでした。

 

そのころ、めのおはまだロマンロランの

小説から得た感動を忘れかねていましたから

言語学の観点から文を読むのと

感情移入をして小説なり詩を読むのとでは

同じ文を読むにしても違う、と

感じていたのでした。

 

地中海的な明晰性には

ある憧れを持っていましたから

エッセイを書く時の

文の構成や文体の

勉強をしようと思ってヴァレリーを

少しづつ読んでいったのでした。

 

その後、他の作家、たとえば

アンドレ・ジイドの小説を

原文では読んでなかったので

読もうとして開いても

読み続けられなくなっていることに気が付きました。

ヴァレリーの文章が

音楽となって

記憶に棲みついてしまっていて

他の作家の文体を排斥するのでした。

 

 

 

5年前の今日こんな記事を投稿していました↓