めのおの少年時代 その⑤ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

昨日は樋を板に組み付ける作業をしました。

 

 

物置と境の金網の隙が狭く作業し難いので事前に組み付けておいて板を柱に止めるだけにしておくためです。

 

 

 

さて「少年時代」のつづき↓

 

隣の平塚の家との境には柾(マサキ)が植わっていて大人の背丈ぐらいの高さに育っていた。この垣根はウチがこの土地へ引っ越した後に植えられたもので、次に書く記憶からすると引っ越した当初には垣根がなかったのだ。

 

その記憶というのは、めのおが母方の祖母に預けられて兵庫県の養父(やぶ)市に今は併合された 八鹿へ行く前のことだったと思う。入り口の脇で昼寝をしてる間に置いてあった自転車が盗まれた。 つまり、生垣も塀も無く、入り口は夏なので明け放してあった。入り口わきの板の間でめのおは昼寝していたのだったが自転車が盗まれた。すぐ傍に寝ていて気付かなかったのか? と目覚めてから親に言われた。当時は住居の入り口に鍵など掛けなかった。盗難は稀だった。それほど東京でも治安が良かったと言える。ただ終戦直後の物のない時代だったので、干しておいた洗濯物が盗まれることがよくあった。

昼寝していた入り口脇の板の間には印刷機が2台置いてあった。子供にはすごく大きな機械に感じた。敗戦まで社員だった大手電機メーカーが人員整理するかして父親は失業し、親子四人と自分の母親を食わして行かねばならなかったので、父親は最初、掘立小屋の一番奥に窯を作ってビスケットを焼いては売っていた。ビスケットでは食って行けなかったのか、その後印刷業に転業した。そうするうち上の妹が生まれ、母親の手が回らなくなったためか食物に不自由のない田舎に次男のめのおが預けられたのだった。

マサキの生け垣で仕切られていた隣とは親戚同士のように自由に行き来できるように垣根に隙間が開いていた。隣の敷地はウチの倍ぐらいあって、まさよっさんの家族とさだよっさんの家族とがそれぞれ戸別に家を建てて住んでいた。通りから裏の公園まで続く細長い敷地に垣根の隙間から入るとまず鶏小屋があって十羽ほどの雌鶏が毎日卵を産んでいた。縁側の前には池が掘ってあり金魚が泳いでいた。

平塚の家の東側、駅前商店街の方向には平塚と同じ形状の細長い敷地にやはり二軒家が立ち、 順子ちゃんの家とお爺さんの家があった。平塚のさだよっさんの家の脇を通り生垣を抜けると公園とお墓との境目に出るのだが、順子ちゃんのお爺さんの家はもうお寺の墓地に接していた。

順子ちゃんは同じ小学校の同じ学年だったがクラスは違った。めのおの母親が小学校のPTAの集まりに行った機会に誘われて順子ちゃんの母親と話がまとまり、めのおと順子ちゃんが一緒に東大の学生さんに勉強を診てもらうことになった。短い期間だったが順子ちゃんと誘い合わせて週一回先生が来る家へ通った。その家は明治通りの向う側の空襲で焼けなかった地区にあった。

古いお屋敷が残った一角で職安通りに通じた狭い空き地には島崎藤村の石碑と小泉八雲の石碑が立っていた。順子ちゃんと週一回その家に通う道のりは楽しかった。四谷第五小学校の敷地内にあった幼稚園へ続く坂の手前にお屋敷が並んでいて、塀を超えて朱がかった黄色い琵琶の実がのぞいてたりした。その道に斜めに繋がった路地の塀の中に、黒の瓦屋根に白い土壁の土蔵が建っていてそこは前田の殿さんの敷地だと母親が教えてくれた。

先生が来る家は、塀に囲まれた広い敷地内に廊下でつながった二階建てと平屋の二軒の家の平屋の方の一部屋で、庭に大きな桐の木と百日紅の木が立っていた。二階建ての家にはめのおと同じ学年の組違いの男の子の家で、その子は小学校の高学年になったとき全国の健康優良児に選ばれたほど身体も大きく色白の立派な顔つきをしていた。歯並びが良く乱杭歯のめのおは劣等感と嫉妬を感じたものだった。廊下続きの健康優良児との家とは親戚同士だったのだろう。

 

順子ちゃんとめのおは八畳の畳敷きの部屋でちゃぶ台に本とノートを広げ黑い制服を生真面目に着た家庭教師の先生に勉強を看てもらったのだった。ある日、なにかの拍子に突然笑い出した順子ちゃんに引きずられてめのおも笑い出し、数十分のあいだ笑いが止まらず、なぜか理由がわからないまま笑うことがおかしくて先生まで誘われて笑うのだった。

順子ちゃんは知的で活発な仕草や物言いに少女っぽさを振りまく女の子だった。色はわりと黑く、おかっぱに髪を切り頬骨が前に開いた平たく四角い顔をしていた。両親は長野の出身で「諏訪」という言葉をよく耳にした。「急いで行く」ことを「とんでゆく」という表現に日本語にも地方によりいろんな言い方があるんだな、と悟ったものだ。

 

近所では順子ちゃんちだけに臼があり、暮れになると臼を借りて来て、庭の隅にあった奥戸で薪の窯でもち米を炊いて餅つきをした。つきたてのモチに大根おろしや黄な粉をまぶしたり、あんころ餅にしてあつくてやわらかな餅をほおばるのは最高のご馳走だった。

日曜にはよく順子ちゃんちに遊びに行った。庭にむしろを敷き順子ちゃんが料理した木の葉をお皿に盛って差し出し、客として丁寧にお礼を言って挨拶してから頂くおままごとをした。お客さんごっこのあとは、敷地の奥のお爺さんの家を覗きに行った。廊下から家に上がって押し入れに隠れ「お医者さんごっこ」をした。このときの胸の動悸はなぜなのだろう。子供ながら秘やかな悪徳への入り口に居ることを感じていたのだろうか?

子供の心というものが、一般に信じられているように天使のように純白で穢れをしらないものだというのは間違いだと思う。それは自分の子供時代のことを冷静に偽らず反省してみれば分かることだ。

庭のケシの花の実から「阿片」が採れる、という話を父方の祖母がしてくれたが、その話はめのおをひどく誘惑した。のちに中学になってから3人の仲間と就いた家庭教師の先生が「阿片」と書いて「あがた」と読むのでこのハンドルネームを「あがた」とした起源はそこにある。「あへん」はオピオムで「あがた」は agata または agatha と書き、乳房を切り取った聖女の名前である。そして「アガータ」は貴石のひとつで「めのう」なのだ。男の名前なので「めのお」とした。

アンドレ・ジイドが「一粒の麦もし死なずば」だったかに子供時代を振り返って、リュクサンブール公園の砂場で同じ年頃の子供が作っていた砂の城を足で踏み崩したと書き、それは意地悪な悪戯からではなく単に城を作っていた子供と遊んでもらいたかったからだ、と書いているがそれと同じようなことをめのお少年もやった。

子供の心にも悪と正義の倫理的判断は自然と備わっていて、これに小学校の教育というものが社会的善と悪との識別を教え込んでゆくのだ。もちろん子供には社会的な善悪の判断はむずかしい。ただなんとなく悪の領域の入り口に立つと禁断のとか悪徳の世界が持つ誘惑を感じて慄くものだ。

順子ちゃん一家は数年後に引越して居なくなってしまった。敷地にあった家は建て替えられ二階建てのアパートになった。

 

そこに新たな住人たちが引っ越してきたのだった。

 

   (つづく)