物置の工事は進んでいます。
屋根は天然石のスレートで葺く予定ですが、数が足りません。
正常な矩形をしたのが50枚。あとは端切れなんです。どうするか? 思案中。
スレートは素人が葺くと隙間から雨漏りがするので、まずはビニールシートで予防措置。
昨日は食品の買い物ついでに、塩ビの樋を買ってきました。
大工仕事を今日も続ける前に、「少年時代」の続きを↓
少年時代に住んでいた家の庭に生えていた木について書いておこう。いちばん大きな木はイチジクで3本あった。家の裏の平塚の敷地との境に一本。東の端に一本。南の井戸を覆うようにしていちばん大きなのが一本。葉のざらざらした感触。そして実を採ると付け根から真っ白な乳液がしたたり落ちる。イチジクは葉が八つ手のように五葉に分かれてるのと三葉で実の外皮が紫色をしたのと2種類あり、フランスで売ってるのはこの後の方で南仏か北アフリカの暖かい地方で採れる。今住んでる地方はフランスのまん中より北だけれど近所の家でも塀際にイチジクの木が葉を茂らせてるのを見かける。でも実は小さい。今年は暖かいせいか実が大きくなっている。記憶にある庭のイチジクは低い所では子供にも実に手が届くくらい。高い所は竹竿を使って実をもいだ。外皮は熟すまでは緑で縞模様が次第に赤みを増してくると熟した印。熟すのがまちどおしくて、その間に実をも ぐ道具を作った。竹の先を二つに割り、間に短く切った割り箸をを挟み紐を結んで垂らす。狙いをつけた実の根元を竿先の股で挟み込む。紐を引いて割り箸を落とすと竿先が閉じて実の根元を挟む。竿をひねれば実が落ちてくる。三本のイチジクの木から代わる代わる実をもぎとり夏の間じゅう乳液で手を汚しながら甘い実を味わい満ち足りた思いをした。
いま思うのだが、このイチジクの木は空襲で焼けなかったのではないか。実を採って食べていたのはめのおが小学校の低学年の頃だったから7歳から10歳の間で昭和26(1951)年から昭和29(1954)年の間のこと。イチジクの木が1945年3月、4月、5月の大空襲で焼けてしまい、明治通り脇の家が焼けてしまって新たに配給を受けて父親が焼けぼっくいとトタンで建てた家に引っ越し、庭に木を植えたのだとしたら、6年間であんなに大きくなるものだろうか?
トタンはコールタールを塗って真っ黒だったから焼けた後は分からなかったが家の柱や梁などには焼けた黑い焦げ跡はなかった。大空襲は下町を中心とし、新宿の明治通り脇も焼夷弾で焼かれたけれど、西大久保のこの辺は延焼で家が焼かれ庭の木などは燃えずに残ったのではないか? というのは隣の植木屋さんの庭には鬱蒼と葉の茂った杉や檜の大木が茂っていたから。あるいは、フランスやスペインで夏になると山火事が起き、広範囲で森林が燃えてしまうが、焼け焦げた木の皮が保護の役割をし、樹木は甦ることができるという。住んだ家の近所にも大きな木は生えていたから、あるいはそう言う事があったかもしれない。
もうひとつ空襲で焼けなかったと思われる木は裏の公園と墓地の境に生えていた5~6本の欅の大木だ。イチジクは6年でも大きくなるかもしれないが欅は6年ではあれだけの幹の太さにはなりようがないと思う。
庭の大きな木はイチジクぐらいで桜か桃か花をつける木があったように思うが小さかった。他は青木とか、ボケとか灌木ばかり。このボケはかなり大きくイチジクの隣の空間を占領していて、真っ赤と真っ白と極端に違う色が同じ一枚の花弁を半々に分け彩っていた。
バラも大きな淡いピンクの花をたくさん咲かせ、その香りは西洋を思わせた。洋ナシと疎開先の八鹿から持ち帰ったグミの木が裏のイチジクの脇に高く伸びていた。モクレンを植えたのはかなり後になってから。ほかには山椒の木を植えた。花としてはケシの花を覚えている。おおきな薄い花弁が開き、花弁が散った後は河童の頭のような実をつけた。祖母がこの実から阿片を採るのだと教えてくれた。ケシは栽培してはいけない花なのに庭にどうして植わってたんだろう?
(つづく)

