巴里の耐乏生活 Foujita という画家 その⑦ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

画家たちの窮乏を見るに見かねた裕福な人が自分の家にカンテーヌ Cantine を設けて食事を振る舞った。モンパルナスのボアソナール街にあるアメリカ婦人のカンテーヌでは、ジャガイモやマカロニ料理にコップに三分の一ずつのワインも付いていた。

そこが2・3か月で閉鎖されてしまうと、ロシアの女流画家で裕福なス
エーデン人のパトロンが居たマリー・ヴァシリエフのアトリエでカンテーヌが開かれた。台所では2・3人の画家が交代で炊事をし、貧しい食事を分け合った。

食事の後、マリーは好んでパリに着いたばかりの頃、アンリ・ルソーに求婚された時の話をした。なぜ結婚しなかったのかという皆の問いにマリーはルソーには死の匂いがしたと答えた。

マりーのカンテ
ーヌには画家の外に音楽家や詩人、政治亡命者たちも来た、トロツキーも姿を現したという。

藤田のトレードマークとなったおかっぱ頭もこの頃に出来た。それは理髪店に行く金がなかったから自分で髪を切って生み出したスタイルだった。髪が長く伸びて眼の前を塞ぐので鋏で切り揃えた。時には横を数段長さを変えて切ることもあった。これらはみんな耐乏生活から出た藤田の知恵なのだった。

 

 

 

 

オランダ人の画家ヴァン・ドンゲンはその頃の画家仲間ではいちばん売れていて羽振りの良い 暮らしをしていたらしい。たまに画家仲間をパリの社交界の人々とのデナーに招くことがあった。藤田もある晩招かれて、食事の後の余興を乞われて詩吟を唄いながら剣舞を披露したところ大喝采を受けた。これがドンゲンも気に入って以来仲良くなり、フォリー・ベルジェ―ルなどキャバレーの舞台に立ち、藤田とふたりで即興のデッサンを観客の見ている前で4・5分で描いてみせる芸をやった。ネコを抱いている裸婦の絵は藤田がネコを担当しドンゲンが裸婦を描く。同時に始めて同時に終え、一幅の絵を完成させるという芸。

こうした芸の外には藤田は他の画家のモデルをやって小遣いを稼ぎどうにか飢えを凌いでいた。

これもまた藤田の工夫の一つで、こうして稼いだ小銭は、家に帰ると空中に放りあげる。小銭は あちこちに散らばり、見えなくなってしまう。ほんとうに困った時に床に這いつくばって探すと隠れていた銭が見つかる。

藤田は写真では痩せて華奢にみえるけれども、子供の頃から柔道をやっていて体力と耐久力はあったらしい。戦時下のパリで餓死寸前の日々を送りながら、画家として必ず世に出て見せるという意志を貫くにはよほど固い信念と耐久力がなければできないことだ。

ドイツ軍はいよいよパリに迫り、モンパルナスでも大砲の音を聞くようになった。 作家の島崎藤村は身の危険を感じて、磁器で有名な南西部のリモージュへ疎開した。

藤田も戦争中1年間だけはロンドンに疎開している。ロンドンではテーラーに住み込んで下働きをしながら洋服の仕立てを覚えた。後になって藤田は手に入る布地で自分の気に入ったスタイルの服さえ仕立てている。日本人経営の骨董店で仏像の修復などもした。セルフリッジで象牙細工や七宝、貝細工、漆細工などの技法を覚えた。特に象牙細工の技法を覚えたこと、象牙の質感を細工技術を通じて触覚的にとらえたことが後に裸体画の肌の独自な表現と技法に役に立った。

赤貧生活のなかで藤田は自分が描く絵の独自性の追求を続けた。パリという世界の芸術の中心で認められるには独自の個性を打ち立てなければ成功はありえない。人の真似ではなく、だれもやっておらず、どこにも存在しなかった新しいものを創り出さなければならない。

大曲で生まれた私は生まれながらの「つむじ曲がり」で、と後年ふざけて語ったが、人の真似は死んでもやるまいと決意していた。時の流行(マチスやブラマンクなど)が幅広の筆で描くことなら俺は逆に細筆の真書(しんがき、楷書の細い字を書くのに用いる筆)で描いてやろう。マチスのように派手な色を多様に使って受けるのなら俺は黒と白の無彩色の画面を作ってやろう。スゴンザックが厚塗りで認められてるなら俺はコローのような薄塗りでゆこう。藤田は風景画ではコローにいちばん惹かれていたようだ。

こうして人の逆手を行くことで独自性を追求した。

藤田のデビューは裸体画だったのだが、修行時代の藤田は裸体画が描けずもっぱら風景画を描いた。構図の研究から500枚も風景画を描き、裸体画を描くようになったのは8年後のことだった。

1914年に描いた油彩の風景画「巴里城門」はパリの風景を借りて東洋画の持つ詩情を見事に表現した作品で、藤田自身後にアルゼンチンへ行った時に画廊のショーウインドーで見つけ大枚をはたいて買い戻し以来ずっと秘蔵していた。

ここで芸大の卒業制作に戻るのだが、黒田清輝が教え子の学生みんなの前に藤田の絵を持ち出して「悪い絵の見本」とこきおろしたことは前に書いたが、その絵が房州の風景に漁師などの人物を配したものだったのか、それとも自画像だったのか? という疑問が残る。夏堀氏は、美術学校予科の卒業制作が房総の風景だったと書かれているが、近藤史人氏の「異邦人の生涯」には黒を使った「自画像」だったとしておられこのほうが黒を避けよと指導していた黒田清輝に真っ向から反抗した藤田という面が明らかなので解りやすい。

その辺の追求はまた別として、藤田の黒について深く考えて後に裸婦像に黒を使い、それによってパリでのデビューを飾ったことを考えれば、西洋の真似事よりも日本の独自の伝統を西洋で発揮したことが世界的な評価につながったことを考えると誠に意味深い。

「黒田を筆頭とする日本の紫派が禁じていた黒こそ日本の最も得意とする色ではないか」と翻然として悟った藤田。しかし、黒色では到底日本の先輩たちには勝てないと知るや、反対の白を、その白色の麗しさを土台に使って、白を白色として生かし、その白色によってさらに黒を生かすことを考えた」(夏堀全弘著「藤田嗣治芸術試論」110頁)

 

   (つづく)