Foujita の青年時代 | 雷神トールのブログ

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明治36(1903)年、嗣治17歳。東京高等師範附属中学校(後の東京教育大学付属、現在のつくば大学付属)4年の頃より(当時の旧制中学は6年制)嗣治はフランス留学の準備のため、暁星学園の夜学に通い、3年間通学してフランス語の勉強を始めました。

Léonard Foujita 展のカタログ(Musée Maillol/ Culturespaces Fonds Mercator 刊、フランス語)にはこう書いてあります。

L'attrait pour Paris est tel qu'il suit dès l'âge de 17 ans les cours du soir organisés par l'école privée l'Etoile du matin, Gyosei, à Tokyo. Cette institution, fondée par des frères marianistes en 1888 ……。

ここで暁星学園という学校について触れますと、フランスのボルドー付近出身の司祭ギヨーム・ジョゼフ・シャミナード氏がフランス大革命時、弾圧を逃れスペインに亡命しますが、後にボルドーに戻り1817年にマリア修道会(女子)、マリア会(男子修道会)を設立します。これを基に世界的に広まった修道会の共同体を総称して「マリアニスト marianistes 」と呼んでいます。

日本には1887年5人のマリア会員が派遣され、翌年東京に暁星学園が創設されました。1891年には長崎に「海星学園」、1898年「大阪明星学園」、1901年横浜「セント・ジョセフ学院」、1946年「札幌光星学園」が創立されています。

 

 

1917年作、パリ郊外、ポルト・ダルクイユの風景↑ キャンバスに油彩、日本の個人所蔵

 

嗣治に戻りますと、明治38(1905)年、19歳で中学を卒業、すぐにフランスに留学したかったでしょうが、父親が息子の将来を気遣って、陸軍軍医の先輩に助言を求めたのですね。その先輩は軍医総監の石黒忠直と森鴎外なのです。

森鴎外がこういう助言をくれた、と「巴里の横顔」に嗣治自身が書いています。

「仏蘭西に行くのも宜いが何しろ日本の画会と云ふものは非常にごたごたが多いから、矢張り美術学校に入って先生方と近付きになったり、色々の絵描の人と知り合ひになった方が宜い、今後日本に五年も居るのは惜しいが、五年間は学校に入って居れ、何にも宜い成績を得なくても宜しい、遊んで居っても構わないから学校に入れ」

藤田が鴎外が言ったとして書いていることなので言葉通りとは言えないでしょうが、嗣治青年がパリへ独り出て世界的名声を得るなどと誰も予想しなかったでしょうから、将来画家として独り立ちするために人脈を作っておけと保守的な助言をしたのでしょうね。

嗣治は父親と森鴎外の意見に従って渡仏を延期し、入学準備のために彰技堂画塾で本多錦吉郎についてデッサンを学びました。これは「線を右の方から左の方へ一本づつはすに並べるやうな非常にむづかしいデッサン」だったと「巴里の横顔」に書いています。しかし、その訓練がパリへ出てから役に立ち、藤田の作品に決定的な効果として現れます。

同年4月、東京美術学校予備科入学。同級に岡本一平(かの子の夫で、岡本太郎の父)が居ました。

学校は怠けがちで先生たちの受けも悪く、なかでもフランスで後期印象派(日本では紫派と呼ばれていた)のラファエル・コランの指導を受け、帰国後日本に洋画の中心的指導者となった黒田清輝からは、卒業制作を生徒皆の前に置いて「悪い例」としてコキ下ろされたのでした。

この卒業制作は房州に出かけて見た風景をもとに描いたものらしく、「房州大東岬辺りの月見草が咲いている夕焼けが迫った海岸の構図で、前方の網をつくらう漁師や、立ってる紺かすりの娘や、その他の船やいろいろのものが一ツ一ツ別々になって、それを寄せ集めてかいたのが明白に分って……印象派ではなかったのが(黒田教授の)ご機嫌に叛いたのだった」、と藤田嗣治直話として夏堀全弘氏が「藤田嗣治芸術試論」(三好企画2004年刊行)に書いています。

黒の線描を得意とする藤田が「黒を使うな。陰は紫色をしている。よく観察してみろ」、とフランス仕込みの後期印象派の理論をそのまま日本に当て嵌めようとした黒田教授と(日本では陰はやっぱり黒に近い色をしてますよね)ウマは合わなかった青年藤田は情熱を絵に向かわせる代わりに恋愛に向けるのでした。

房州旅行で女子美術出身の鴇田(トキタ)登美子という女性と恋に落ち、駆け落ちに成功して正式に結婚します。しかし、嗣治の渡仏後に登美子が文部省の検定試験に合格したのを嗣治が嫌い、ふたりは離婚することになります。

明治43(1910)年、嗣治24歳の3月、東京美術学校本科を卒業しました。渡仏はすぐには出来ず、3年間、文展に毎年出展しますが、いちども入選できずに落胆の連続でした。やっと父から「フランスへでも行ってゆっくり勉強して来い」と言われ、飛び立つ思いで船に乗ったのでした。

大正2(1913)年6月18日、藤田嗣治27歳、横浜から日本郵船の三島丸に乗船し、45日の航海の後、マルセイユに到着しました。

    (つづく)